21歳で身体にガタ、10時間睡眠は必須…「若いのに体力がない」29歳女子が「体力ありき」の社会に思うこと
早く帰って早く寝たい
これで劇的に健康になれればいいが、今のところ身体が少し軽くなったような気がするくらいしか卓球の効果は感じていない。理想的にはパーソナルトレーニングをやってみたいが、そんなお金はない。苦手かつ嫌いな運動を満足な結果も得られないのに続けられているのは、我ながら結構ストイックなのではないか。虚弱体質だと周囲の人に「運動不足なんじゃない?」みたいなことを言われがちなので、「運動してますけど?」と反論するために続けている部分もある。 対談記事のヤフコメでも「規則正しい生活をすれば治る」という旨の説教をされたが、これも胸を張って反論できる。私は不眠症だった3年間を除けば幼少期から一貫して規則正しい生活をしているが、一貫して虚弱なのだ。大学時代には大学生なのに規則正しすぎてヤバいと周りから恐れられていた。 私が「絶対に終電を逃さない女」なのは、単に体力がないからというのも大きい。夜は早く帰って風呂に入って早く寝たい。30代や40代で朝まで飲んでいる大人が羨ましい。
体力がないとは時間がないことでもある
今、スポーツセンターで筋トレと卓球の休憩時間にこの原稿を書いている。もはや健康になるための行為の合間に仕事をしている感覚になってきた。睡眠時間が長いぶん起きている時間が短い上に、基本的に体調は優れないし、毎日の自炊と運動など健康になるための行為にかなりの時間を割いているので、とにかく時間がない。体力がないとは時間がないことでもある。現時点で初老レベルの体力なら実年齢50歳くらいで寿命が尽きそうな予感もするし、実質的に人生が短いとも言える。 私にとって睡眠を削って仕事をするというのは成立しない。空腹で戦をするようなものである。睡眠が足りなければ頭が働かなくなるので、文章なんて書けるはずがない。 身体の調子が良い時ほど筆も進むので、健康であればあるほど良い文章が書けると思っている。創作や表現における加齢とともに「才能が枯れる」「感性が衰える」といった現象は、体力の低下が最大の原因なのでないかとも思う。集中力が落ちたり感性が鈍ったりして、インプット・アウトプットともに質が落ちるからだ。 卓球を始めたのは、運動嫌いの私にはある程度ゲーム性のあるスポーツのほうが継続しやすいのではないかと考えたためだったが、結局もっと効率の良い有酸素運動をしたほうがいいと思い、先日ついにランニングを始めた。翌日軽い筋肉痛になった。 ふとした瞬間に、何のために生きているのだろうと虚しさを覚える。私は健康になるために生きているのだろうか。健康が人生のスタートラインだとすると、ずっとスタートラインを目指している。スタートラインがいつの間にかゴールのようになって、本当のゴールは遠すぎて見えず、自分にとってのゴールが何なのか考える過程に至らない。 不意に人生の目標や夢を問われると、真っ先に「健康」が思い浮かんでしまう。そう答えると微妙な空気になったりもするので、「猫を飼うこと」と答えることが多い。これは単に猫が好きというだけでなく、猫という自分以外の生き物の健康を世話するだけの体力と経済的余裕を手に入れることも含意している。 私のライフスタイルを知った人には「若いのに健康に気を遣ってて偉いね」とよく言われるが、私にとってはただ、今を生きるために必死なだけなのだ。 生きるために私はこれからも、何度空振りしようとピンポン球を拾い続けるし、どんなに不格好でもスタートラインを目指して走り続けるだろう。
絶対に終電を逃さない女(文筆家)