82歳料理家・村上祥子 終戦後に同級生がガリガリでも健康優良児だった私。家にはバターや砂糖もあったが、それで「豊かな食生活」かというと…
◆子ども時代の我が家の食卓 そんな我が家の食卓はというと、昭和の家庭料理とはちょっと違っていたかもしれません。 父は一滴もお酒が飲めない人。そして魚嫌い。 夕食はビーフシチューやステーキなど、洋食が多かったですね。 会合などで父が出かけることがわかると、母はすぐに魚屋に電話をしてお刺身の盛り合わせを取り寄せました。 「わさびとおしょうゆだけで、こんなにおいしいのよ」と、うれしそうに教えてくれるのです。 母の料理は、おふくろの味というよりは、今でいうグルメ風。 プレーンオムレツもお刺身も、上質な素材を生かした料理でした。 小学1年生の遠足には、手製の飴をかわいい缶に詰めて持たしてくれました。 「お友達にもあげてね」私は飴のたくさん入った缶を振って、もうワクワクです。 楽しい遠足に出発!ところが夕刻、玄関にたどり着くなり、私はうっとしゃがみ込み、「おえー!!」と、いうや否や胃の中のものを吐き戻してしまいました。 後日、近所の人から私が飴を一人で食べ切っていたと聞いた母に大笑いされました。 お姉ちゃんぶっていてもまだまだ子ども。おいしいものには目がない食いしん坊だったのですね。 体調を崩した母にはあったかいご飯を、お客さまにはあるもので工夫をしたお茶菓子を。 私は7歳の頃から、だれかに何かを作ることの喜びを知りました。 食事は栄養を得るためだけでなく、人と人がつながるためのものでもあると、なんとなくわかっていた気がします。 ※本稿は『料理家 村上祥子82歳、じぶん時間の楽しみ方』(エクスナレッジ)の一部を再編集したものです。
村上祥子