クラブ消滅で幻に終わった“PR策” 「忘れもしません」…日本サッカー界へ願う“持続可能性” 【インタビュー】
Jリーグ悲劇の歴史“フリューゲルス消滅”
今年で31年を迎えたJリーグには、決して忘れてはならない悲劇がある。1993年の開幕時に“オリジナル10”として名を連ねていた「横浜フリューゲルス」の消滅。このクラブの立ち上げに関わり、吸収合併までを見届けた元スタッフに話を聞く機会を得た。四半世紀前に起きた日本サッカー界の大事件で何を感じ、その経験はどのようにつながっているのか。(取材・文=FOOTBALL ZONE編集部・山内亮治/全2回の1回目) 【動画】元フリューゲルスMFエドゥー、1994年磐田戦で決めた伝説の“40m直接FK弾” ◇ ◇ ◇ 「“ロス”に2年はなりましたよ。この間は仕事に身が入らず、生活していてもなんかつまらないなと。サッカーも観に行かなくなりました」 そして、こう続けた。「自分の一番好きなチームがなくなったんですから」。発言の主は大松暢氏。1999年元日での天皇杯優勝を最後に消滅した、横浜フリューゲルスの立ち上げに関わった人物である。 Jリーグ31年で唯一の事例であり、黒歴史と言えるクラブ消滅。きっかけは、98年に入り共同出資していたゼネコンの佐藤工業が経営不振を理由にクラブ運営からの撤退を表明したことだ。これに伴い全日本空輸が単独でクラブ運営を維持できないと判断したことで、横浜マリノス(当時)に合併を提案した。マリノスの親会社、日産自動車はこれを承認。同年12月2日に両クラブの合併が調印され、フューゲルスの消滅が決まった。 クラブ運営会社「全日空スポーツ」に在籍していた大松氏はマリノスとの合併を98年10月29日の朝刊で知った。「忘れもしません」。当時を振り返ると語気が強まる。“前日”の社内連絡どおり、出社直後に従業員が一室に集められると社長から説明があった。 「話は『親会社が決めたこと』の一点張りだったように記憶しています。これは決定事項で、変えられないんだと」 Jリーグ開幕から5年、クラブとはこんなにも簡単に消滅するのか……。1990年代後半といえば、平成不況の煽りを受け大型実業団の廃部が相次ぐなど、団体スポーツには受難の時代だった。それでも、「プロクラブでしょ」。 また、「合併を認めた会社の人間なので本当はダメなのですが」と述べたうえで、当時のこんな裏話を教えてくれた。 「報道後にフリューゲルス再建協議会が立ち上がり、そこの話し合いに毎回参加していたんです。夜な夜なサポーターや地元のサッカー指導者たちとクラブ存続の道はないか協議していましたね」 大松氏をここまで突き動かしたものは何だったのか。