クラブ消滅で幻に終わった“PR策” 「忘れもしません」…日本サッカー界へ願う“持続可能性” 【インタビュー】
運命的な全日空スポーツ出向
大学サッカーの名門である筑波大学蹴球部出身だった大松氏は、卒業後に社員選手として日本サッカーリーグ(JSL)の東芝で1985年から90年にわたって活躍。現役最終年には1部でのプレーも経験した。 引退後は2年間、工場で生産管理を担当していたなか、ある日の新聞で全日空と佐藤工業がJリーグクラブの立ち上げを行う予定であると知る。「夢があるけど本当に上手くいくのか?」。日本サッカー界の新時代に懐疑的な印象を抱いたが、ここから運命に導かれる。 佐藤工業本社の人事部に所属していた父親から、全日空スポーツでの仕事に興味がありそうな知り合いはいないかと大松氏に相談があった。扱いは佐藤工業からの出向となるため身分は保証されるものの、周囲も同じくJリーグに懐疑的で希望者が見つからず。「それなら自分で行ってみよう」と東芝から転職し、92年7月1日付で佐藤工業に入社。即日、全日空スポーツへ移った。当時30歳。家庭を築いていたが、妻からの反対は「押し切りました」。 入社当時は、7人程度と小さな所帯だった全日空スポーツ。「『サッカーって何?』みたいな人も社員にはいましたね」と当時の雰囲気を語る。チーム運営のあらゆることが手探り状態のなか、大松氏は選手の査定方法立案をはじめ、外国籍選手のサポートなどフロント的役割に奔走した。 Jリーグ開幕から2年間はチーム統括マネージャーを務め、その後はホームタウン営業に携わることになった。 「マネージャーの仕事をしていると常にチームに帯同しなければいけないので、1年の半分近くは自宅にいないわけです。なので2年目を終えた頃、『もう勘弁してよ』と会社に申し入れをしました。当時3人目の子供が生まれたばかりでしたし、地域に根差すというJリーグの理念に基づいた活動をしたい気持ちがありましたから」
幻に終わった「ゆりかごから墓場まで作戦」
クラブの営業職としても、追いかけたのは同じ町のライバルの背中だった。 「横浜に関してはマリノスがメジャーな立場でした。同じホームタウンを持つクラブをライバル視しつつ、営業課長としてどれだけファンを増やせるか意欲が沸いたんです」 そこで、商店街などに足を運びいろいろな人から知恵を拝借。町内会の子供向けサッカースクールといった、当時マリノスがしていなかったさまざまなPR策を打ち出した。また、ポスター配布ではこんな“ウルトラC”の技も使っている。 「学校に貼れないかと横浜市の職員に相談したことがあります。『横浜熱闘倶楽部』(市内プロスポーツチームの応援連合体)とロゴを入れたら可能だと聞いたので、市役所にある小中高510校のポストに投函しました。こうすると、郵送費なしで学校の用務員さんに持って行ってもらえるわけです。しかし、子供を通じてマリノス役員にバレてしまいました」 チームが消滅したことで幻に終わったが、こんなアイデアも温めていた。 「役所の出生届提出窓口でフリューゲルスのマスコットキャラクター『とび丸』のぬいぐるみを渡そうと考えていました。その名も『ゆりかごから墓場まで作戦』です」 天皇杯決勝が終わると、大松氏も身の振り方を決めなければならなかった。「マリノスに行かないか?」。フロントとしてフリューゲルスの選手の移籍先を調整していた木村文治氏(後に京都パープルサンガのチーム統括部長に就任)から誘いを受けたと振り返る。それでも気持ちは揺るがなかった。 「マリノスを出し抜こうといろいろな策を練っていたわけですから、ライバルに行こうとはなれなかったですね」