鉄道と芸術家の街に置かれた東京の「北の駅」
美術人の住まうまち
田端は鉄道の町であると同時に、文士や芸術家が数多く住んだことでも知られている。近藤富枝著『田端文士村』(1975年、講談社)の書き出しはこうだ。「東京府下北豊島郡滝野川町字田端は、明治の末には一面の畑であり、何の変哲もない田舎町にすぎなかった。 しかし上野美術学校と台地続きであったため、美術人の住まう人が相つぎ、大正のはじめにかけては、美術村の観があった」。 代表的な美術人が、陶芸家の板谷波山(いたや・はざん)である。1903(明治36)年に現在の田端三丁目に転入、窯(よう)を設(しつら)えて作陶(さくとう)に励んだ。やがて美術家ばかりではなく、1914(大正3)年には、あの芥川龍之介が田端へ転居してくる。「唯ぼんやりした不安」という言葉を残して自死するまで、この地の住人だった。 駅前の田端文士村記念館でもらった、文人の住まいマップを頼りに付近を歩く。北口駅前と芸術家たちが住んだ台地の上とは10mほどの高低差があり、階段を上るのもひと苦労だ。芥川の旧居跡に予定されている記念館の敷地からほど近い、不動坂という階段を下ると、駅の南口に行きつく。昭和初期の建築といわれる駅舎は、北口とは対照的にまことに小さく、ローカル線の駅のようだ。文人たちの多くもこの駅舎を利用したのだろうか。 駅名標は闇にまぎれ、駅舎の入口と自販機の明かりがやけに目立つ。冬の夕暮れは早い。
辻聡