鉄道と芸術家の街に置かれた東京の「北の駅」
“北のノド首”と呼ばれた田端地域
田端操車場の隣接地には客車の組成や検修、留置に任ずる尾久客車区(現尾久車両センター)も置かれ、そのほか機関区や電務区、信号区などなど、あらゆる現業機関が集まっていた。どれを欠いても北日本の鉄道機能がマヒすることから、“北のノド首”と呼ばれていた。 往時の操車場は、貨物列車が着くとまず到着線に入れ、貨車1両1両の連結ロックをはずす。その列車を入換用機関車がハンプ(=hump)と呼ばれる人工の小高い丘まで後部から押し上げ、頂上付近で貨車を1両ずつ突き放す。すると、目的地別にポイントが切り換えられた仕分線めざし貨車は、自ら丘を下ってゆく。こうして振り分けられた貨車が所定の両数に達すると、ふたたび1本の貨物列車として組成され、予定の目的地へ出発したのである。 各地の操車場でこんな作業を繰り返していたので、ひとつの貨物が目的地へ着くまでには厖大(ぼうだい)な手間と時間を要した。それでも、1960年代ごろまで中長距離の物流は鉄道の独壇場だったから、東京の周辺だけでも、操車場は田端のほかに品川(のちに新鶴見へ移管)や大宮といった拠点に置かれて、日本の通運を支えたのだ。 しかし、その後のトラック輸送の台頭により鉄道貨物輸送は失速し、再編が急務となった。田端操車場も1974(昭和49)年に新設の武蔵野操車場にその役割の大半を譲り、跡地は東北新幹線を皮切りに拡大していった東日本エリアの新幹線車両基地に変貌したのである。
文士村の面影を残す南口駅舎
崖下の段丘上に開設された田端駅のメイン改札口は、駒込寄りの北口である。ホームから階段やエスカレーターで駅舎へとあがる構造。改札を出た右手には、歩行者専用の「田端ふれあい橋」が、その向こう側には車道の新田端大橋が、かつての操車場の名残りで幅広の線路用地の上に架けられている。頭上を圧するのは新幹線の高架橋だ。東側の橋のたもとには、JR東日本の東京支社が居を構える。 田端ふれあい橋の出自は、現在の新田端大橋が架かる前に使われていた先代の田端大橋だ。植え込みのなかに「田端大橋」の橋名板や生い立ちを記したプレートがある。それによれば、1935(昭和10)年に架けられた橋で、接続部をすべて溶接で仕上げているのが特徴という。当時の軍艦建造技術を用いたとある。欄干(らんかん)ぎわに、200系新幹線前頭部の連結器カバーや車輪、在来線のポイント転換用レバーなどが展示されているのが「鉄道の町」らしい。