「電子世間」から脱却できず「本物」になれない松本人志氏 テレビとSNSが表裏一体となった新しい世間の危険性
「電子世間」からの脱却
そこにテレビとSNSが表裏一体となった新しい世間としての「電子世間」が形成され、新しいタイプの共同幻想が、とりあえずの(表面的な)平和と安逸を貪る人々を呪縛する。 これまでの世間は、家の外にあって、真綿で締めるような力で、じわじわと個人を圧迫した。しかし「新しい世間」は、個室というプライバシー空間の内部にあって、キリで刺すような力で、個人の心を直接攻撃する。テレビの生ぬるいタテマエの言葉も、SNSの激しいホンネの言葉も、同様に危険なのだ。 「電子世間」は、子供が電子ゲームにハマるように中毒化するところがある。すなわちそれは「ハマる世間」であり、クスリやカルトにも似ているのだ。人々は、これまでの世間に対してはそれなりの免疫(文化的なもの)ができているのだが、新しい世間に対してはまだそれができていないのかもしれない。 どうしたらいいのか。 「世間」とは、もともと仏教用語であった。それは俗界を離れた「出世間」に対して、煩悩と執着の世界であると否定的に扱われている。もちろん凡俗な人間には仏教者のような「出世間」は難しい。また現代社会においてテレビやインターネットを拒絶することも難しい。 僕は『「家」と「やど」-建築からの文化論』(朝日新聞社1995年刊)において、万葉の時代以来、日本人は常に、世俗(世間)の住まいとしての「家」に生きながらも、そこから脱却する住まいとしての「やど」に生きてきたことを指摘した。実は芸能者も、かつては「やど」の側にあるべき存在であったのだ。日本の座敷芸の淵源たる能や茶の原型は、阿弥衆や同朋衆といった一種の仏教者によって形成されたのであり、たとえつかのまであっても、世俗を離れるところに意味があった。 現代の日本人は、電子情報社会に生きながらも、そこに生まれる新しい世間としての電子世間から脱却する「新しいやど」を必要としているのではないか。松本人志氏のような芸人(僕もある種の才能を認めている)は、その脱却の場としての「やど」で力を発揮してこそ本物であろう。たとえば立川談志やビートたけしには、そういう生の現場に生きてきた芸人の力を感じる。 宗教者や思想家でなくても、人間は時に「世間からの脱却」が必要だ。 脱却して初めて、人はそれが共同の幻想であったことに気づく。 この原稿を書いているときに、大谷翔平選手の通訳のスキャンダルが報道された。今、大谷選手をめぐる電子世間は、国際的でかつ、とてつもなく大きなものになっている。そこに生じる圧力と危険も大きい。また、ことの推移にも日本とは異なる激しさを感じる。日本の大谷ファンと報道陣にとって、国際的な電子世間に対する免疫を得る、いいチャンスなのかもしれない。 野球での活躍を祈るばかりだ。打て! ショーヘイ。