「電子世間」から脱却できず「本物」になれない松本人志氏 テレビとSNSが表裏一体となった新しい世間の危険性
アメリカの日本に対する軍事研究としての「世間」
僕は若いときにルース・ベネディクトの『菊と刀』を読んで影響を受けた。アメリカの女性文化人類学者による日本文化論であるが、実は太平洋戦争において、日本といかに戦い、いかに統治するか、という実践的目的をもつ軍事研究の一環なのだ。外国人でありながらおどろくほど的確な分析で、以後の日本文化論、日本人論に決定的な影響を与えている。読んでみて、敵国に対してこんな冷静な研究を行う国と戦っても勝てるはずがないと思わされた。 内容としては特に「世間」と「恥」の概念にページが割かれている。分かりやすくいえば、日本人は「世界」にではなく「世間」に生き、「罪」をではなく「恥」を気に病む、ということである。その精神に「神」という絶対的基準をもつ欧米からは、この「世間」と「恥」が日本社会の著しい特質と映るのだ。 戦後日本では、戦時中の超国家主義への反省と欧米の影響によって、「世間」ではなく、個人、民主、自由、人権といった普遍的な価値観が志向された。しかし長い歴史の中で培われた日本人の世間志向が一朝一夕に変わるものではない。戦争への反省が薄れるとともに、日本社会では国家に代わる共同性が求められていったのではないか。そこにテレビが登場する。
国家に代わる「共同幻想」としてのテレビ
「テレビ」というものは「国家」に代わる「共同幻想」の側面があるように思う。 テレビと国家を並べるのは奇妙な気がするが、大日本帝国という共同幻想が消滅した戦後、焼跡闇市の混乱を経て、日本人の共同性をリードしたのは、素人ののど自慢大会であり、年末の歌合戦であり、朝の連続ドラマであり、日曜日の夜の歴史ドラマではなかったか。 もちろん吉本隆明の『共同幻想論』を下敷きにした議論であるが、僕らの若いころは反体制運動が盛んで、プロテスト(異議申し立て)意識の高いフォークシンガーたちは、テレビを資本主義と国家権力の手先のようにとらえて出演を拒否していた。彼らは今でもライブ演奏を重視しているが、そこには左翼的な政治運動気取りというだけではなく、テレビという強い国民共同性に飲み込まれることを警戒する、創作者、表現者としてのデリカシーと気概があったと思われる。 しかしいつの間にか、日本社会から(世界の先進国に共通する現象でもあるが)、資本主義と国家権力を警戒するような動きがほとんど消失してしまった。同時に、番組制作者たちにテレビ文化創成期の魂が失われ、アイドルとお笑いタレントに頼る安易な番組づくりが横行し(もちろん優れた番組もあるが)、またインターネットという新しい技術の普及によって、過激な誹謗中傷が野放し状態のSNSが登場したのである。