【田中純】『磯崎新論』はなぜ「シン・イソザキろん」と題されたのか【「前口上」試し読み】
田中純さんによる新著『磯崎新論(シン・イソザキろん)』が刊行されました。 2022年12月28日に91歳で亡くなった世界的建築家・磯崎新。磯崎のほぼ全キャリアを追った決定版の磯崎新論です。 本書はなぜ「シン・イソザキろん」と題されたのでしょうか。その理由が明かされている、本書「前口上[プロローグ]」を特別公開します。 ※注などは一部省略・変更しているほか書籍版と一部異なる箇所があります。また岡崎乾二郎さんの「崎」は正しくは「立」の崎です。
腹話術の人形にならずに、いかに磯崎を語るか
磯崎新は二〇二一年七月、友人・知己に宛てた卒寿の挨拶文にこう書いている── 四十才(一九七一)までは アーティストとして 六十才(一九九一)までは アーキテクトとして 八十才(二〇一一)までは アーバンデザイナーとして それぞれの時代の先端的〈媒体〉の 発見 開発 創出 に努めた 老師と呼ばれる翁になった頃 〈アーキテクチュア〉が 全てを貫通することを悟り これを司る デミウルゴス の化身になることを慾した 九十翁 磯崎新 二〇二一年 七月 二三日 アーティスト/アーキテクト/アーバンデザイナーを経て「デミウルゴスの化身」に至ろうとするこの人物は、「先端的〈媒体〉」との関わりを通して、「建築家」のあり方を大きく変えた。その活動は芸術と文化の多くのジャンルを横断し、それら全体をデザインする──磯崎の言い方に倣えば〈アーキテクチュア〉として編成する──変幻自在なものであり続けた。磯崎が作り上げてきた作品とともに、語り、書き記してきた言説もまた膨大で、ひとは容易にその圧倒的な博識とニュアンスに富む語り口に眩惑され、磯崎そのひとの姿を見失う。そうでなければ、磯崎の語り/騙りを自分の言葉のように錯覚する、腹話術師[デミウルゴス]の操る人形と化してしまう。 「磯崎新」そのひと自身がもっとも先端的な〈媒体〉であったのだ、と言おうか。「デミウルゴス」こそはそんな「見えない」建築家の媒体的性格に与えられた名なのである。──だが、そんな推測もまた、この老師の言葉を思わず反復する行為でしかないのであってみれば、この場で「磯崎新論[シン・イソザキろん]」を書き始めようとするわたしがまずなすべきは、「腹話術の人形にならずに、いかに磯崎を語るか」という方法の案出以外にはない。しかし、磯崎が築き上げてきた言説の厚みによる強烈な磁場のただなかで、そんなことははたして可能なのだろうか。 磯崎の活動の多面性に応じ、ひとは往々にしてその複数の顔のひとつについてしか論じることができない。たとえば、比較的最近磯崎を特集した『現代思想』2020年3月臨時増刊号は、わたし自身の論考(「デミウルゴスのかたり──磯崎新の土星的仮面劇」)をはじめとして、建築を必ずしも専門とはしない執筆陣によるテクストの多様性を特徴としているが、そのことはむしろ、先に触れた限界を露呈させていたようにも思う。 さらに、この特集のなかで磯崎の建築作品について具体的に論じた論考が、大分県医師会館新館(1972)に関する青木淳のものほぼ一篇だけという構成によっては、建築/反建築(ないし建築外)の緊張関係という、磯崎論の核心をなすべき問いが見失われてしまいかねない。 この『現代思想』総特集や青木と西沢大良がインタヴュアーとなった『a+u』2020年8月号の特集「磯崎新の1970年代 実務と理論」が、いずれも総じて磯崎の現在および過去をポジティヴに(再)評価する論調であるのに対し、その仄暗い影のように思い起こされるのは、かつて「磯崎新1960/1990建築展」カタログへの寄稿で、三宅理一が1980年代後半の「大文字の建築」をめぐる磯崎の言説を「巧妙に仕組んだ罠」と呼び、「形而上学と政治のちょうど中間にあり、そうであるがゆえに毒のある物語なのである」と断定したことや、より近くは、ウェブ上の石山修武「X SEMINAR」において故・鈴木博之が、石山と難波和彦に宛てた私信のかたちで、磯崎の影響力はあくまで知識人エリートのそれであって、「大衆の原像」(吉本隆明)を視覚化しえていた丹下健三や安藤忠雄ほどのスケールや幅はそこになく、磯崎新の存在を論じることの意味は「建築の世界における知的あり方を考える(あくまでもひとつの)きっかけ」になるからでしかない、と切って捨てたかのように書いていた事実である。 石山の言い方を借りれば、鈴木は「建築史家、批評家としての自分の道の邪魔になりかねぬ」とばかり、「磯崎新に対して固く高い壁を立てて」いた(なお、これは石山による未完の磯崎論中の評言だが、この石山の磯崎論は、いわば体感に深く根ざした作家論として、卓抜な指摘を数多く含んでいる)。われわれは磯崎を深く知るこの建築史家たちの警鐘や頑なな拒絶の所以と意味を知るべきではないだろうか。それがつまり、建築/反建築の緊張関係と呼んだ点なのであり、重要なのはその緊張が磯崎にとってけっして外在的なものではなく、むしろ彼のうちに終始、強度を保ったまま内在し続けてきたことである。