【田中純】『磯崎新論』はなぜ「シン・イソザキろん」と題されたのか【「前口上」試し読み】
本書のアプローチ
肯定否定いずれにせよ、磯崎のビルト/アンビルトの建築作品のみを取り上げ、アーキテクトとしての磯崎についてだけ語ること、いち早く都市を情報環境の場と見抜いたアーバンデザイナーとしての「虚業」活動に限定した考察を行なうこと、自作の建築物を版画や模型写真といった多数のイメージへと変換してビルト/アンビルトの境を紛らしたり、瓦礫[デブリ]化した未来都市のヴィジョンを憑依させて描いたりする、幻視的[ヴィジョナリー]なアーティストとしての振る舞いに限って論じること、あるいは、それらすべての背景にある、近代建築の正史に対抗する「反建築史」と「日本建築史」を絶妙な「間[ま]」合いで二重螺旋のように結び合わせた磯崎の史的言説を、アカデミズムの作法で実証的に検証すること ──これらすべては、安定したジャンルの内部における磯崎新の「正伝」としていずれ書かれるべきものだろう。だがそうした正伝はどれも、磯崎が「デミウルゴス」と呼んでいる奇妙な存在の本性を取り逃してしまうことになるだろう。なぜならこの存在は、正伝が扱う領域相互の狭間・ずれにこそ棲息し、その領域間の迅速な移行のうちでしかとらえられないからである。 それゆえわたしはここで、たとえ無謀ではあっても、アーティスト/アーキテクト/アーバンデザイナーの全領域の総体をテクストとしてまるごと扱い、自分なりの磯崎新[デミウルゴス]像をくっきりとした輪郭で描くことを選ぶ。「シン・イソザキ論」という、庵野秀明の『シン・ゴジラ』や『シン・エヴァンゲリオン』をもじったような別名の併記は、磯崎最初期のSF的マニフェスト「都市破壊業KK」における「SIN/ARATA」という二体の分身への自己分裂に対応している。 それをルビで表わすこともまた、この種の分裂状態を象徴する磯崎特有の書体の擬態である。「シン」は間違っても「真」ではなく、「磯崎新論[シン・イソザキろん]」という表記はむしろ、みずから「新[SIN]」なるもの──他者──であろうとする自覚の表現なのだ。 とはいえ、ここで取ろうとするアプローチそのものはじつのところきわめてシンプルだ。これからわたしは、磯崎の生涯と作品・言説を基本的に時系列に忠実に沿いながら辿ることにする。事実関係はインタヴューなどで磯崎が語った内容にもとづくしかないことも多々あろう。 だが、本書ではそれらをできるかぎり客観的に相対化すべく、公開されて入手可能な資料に依拠した作品・言説の分析を丹念に積み上げてゆくことになるだろう。「腹話術の人形」にとどまらないために必要とされるのは、そんな積極的な凡庸さであると信じるがゆえである。 磯崎は初期から、多木浩二や浅田彰といった併走する批評家とのたび重なる対談をはじめとして、夥しい数の談話を残しており、とりわけ二〇〇〇年代以降は、インタヴューという形式で自伝と作品自註、そしてみずからの歴史観を混然と一体化させた語りを再三繰り広げてきた。 磯崎新・日埜直彦『磯崎新インタヴューズ』を筆頭とするそうしたインタヴュー集が第一級の資料であることは間違いないものの、そこで磯崎自身によって繰り返し語り直され編集される「磯崎新」像は、相互に重なり合いながらも微妙にずれてゆく圧倒的な言説群の大渦巻き[メエルシュトレエム]と化し、読者を呑み込み翻弄してしまう。