【田中純】『磯崎新論』はなぜ「シン・イソザキろん」と題されたのか【「前口上」試し読み】
単純かつ正面突破の「磯崎新論」
かつて岡崎乾二郎は『磯崎新インタヴューズ』刊行に際した浅田、日埜との鼎談で、磯崎自身の言説も含め、この人物の周りに積み重なる膨大な言説が消え去るのを待っている、と語った──「⾔説はいずれ中⼼にはならない。消え去るのみ」。岡崎はそこで、磯崎はその夥しい言説の整合性が破れた裂け目にこそ「⼤⽂字の建築」を出現させていると見るべきであり、だからこそ「⽂をもって⽂を切る本物の⽂⼈だ」と述べるのだが、わたしがここで行なおうとするのはいわば、消え去るべきものを消え去らせるために「⽂をもって⽂を切る」、単純かつ正面突破の「磯崎新論」である。 磯崎が描いた自作「つくばセンタービル」の廃墟化した光景が参照している、ジョン・ソーン設計のイングランド銀行鳥瞰図(ジョゼフ・ガンディー画)が、廃墟とも建設途上とも思える描写によって建築物の構造を隅々まで鮮明に浮き彫りにする手法の産物であったように、シン・イソザキ論は廃墟化にも見紛う破壊と解体こそを方法にする、と言ってよいかもしれぬ。 大分や福岡に建っていた磯崎の初期作品の数々が解体・撤去されてゆくなか、消え去るものが言説だけではなく、むしろ建築物そのものであるからこそ、文によるそんな廃墟化が求められるように思われる。さらにまた、これが磯崎「伝」ではなく、あくまで「論」を名乗るのは、平等な網羅性をどこかで要求される「伝」ではなく、廃墟化に不可欠な捨象と省略を旨とする「論」の自由裁量の余地を確保しておくためである。 文による廃墟化を目指すのだ、と述べた。本書がもとづく雑誌『群像』における連載では、あえて図版をいっさい用いなかった。文のみによって建築を記述することを自分に課そうと考えたためである。磯崎がしきりに言及する〈建築〉あるいは「大文字の建築」、さもなくば〈アーキテクチュア〉が空間的に知覚される観念だとするならば、ここで試みたいのはその観念の構造を言語によってアレゴリカルに表現することであり、その意味でこれは、抽象の虚空に〈建築〉の輪郭を描き出そうとする、一種の「思考の紋章学」(澁澤龍彥)なのである。 磯崎の〈建築〉観念がかたちづくる幾何学的空間とそのトポロジカルな変換の運動を言語によってトレースすること──本書が目指す目標のひとつはそんな作業なのだが、そこに至るためには、建築と都市をめぐる磯崎新の思考をその生成過程のただなかでとらえる年代記編者の鈍重さが不可欠である。それゆえはじめはとりわけ緩慢なペースで、はるか彼方から徐々にこの人物へと、いわばにじり寄ってゆくことになるだろう。 デヴィッド・ボウイを論じるなかでわたしが知ったのは、彼が「わらべ歌」を数々の楽曲創作の糧にしていたという事実だった。磯崎の場合、そうした糧に当たるのは「おとぎ話」ではないか──そんな直感的な仮説から出発したいと思う。そこで思い浮かぶのは何よりもまず、プラトンが書いた宇宙論的おとぎ話としての対話篇『ティマイオス』である。立方体や円筒、球などの単純な幾何学形態を用いた──時期の磯崎作品の手法に通じる、宇宙の構成要素としてのいわゆるプラトン立体や、磯崎が日本文化の説明原理とした「間[ま]」を語るときに参照する「コーラ(場)」の概念、いや、「造物主」の意の「デミウルゴス」までもがこの対話篇のなかで言及されている。 そのうえさらに、『ティマイオス』の冒頭で物語られる、──昼夜にして海底に沈んだアトランティスは、磯崎にとってみずからのルーツに関わる、或る島の幻と結びついているのである。史実かどうかも定かでないその島をめぐる伝説は、この磯崎新論[シン・イソザキろん]を語り/騙り始めるきっかけとするにふさわしい。それゆえわたしもいったん腹話術人形と化し、おとぎ話の語り口に則って、こんなふうに始めよう── 昔むかし…… (つづきは本書にてお楽しみください!)
田中 純(イメージ論、思想史・表象文化論)