授業で習った「寝殿造」は間違いだらけ? 道長らが暮らしたその建築様式を問い直す―藤田 勝也『平安貴族の住まい: 寝殿造から読み直す日本住宅史』
◆幻想が生んだ〝常識〟覆す 平安時代の貴族は寝殿造(しんでんづくり)の館を営んだと、われわれは学校で教わる。それは、南側へ広がる庭へ向かい、殿舎が左右対称に構成されていた。あるいは、シンメトリカルな(均整がとれた)配置を、目指していた。以上のようにも、学んできたはずである。 しかし、実際にはそうでもない。対称的であったという議論を持ち出したのは、江戸時代の国学者である。それは、数百年後に浮上した歴史語りであった。平安時代への幻視がもたらした指摘であったと、言うしかない。だが、今でも一般的な寝殿造の解説は、この幻にとらわれている。そこは改められるべきだと、著者は立ち上がった。 見直されなければならない寝殿造像は、まだある。貴族の住居であった寝殿造は、室町時代に崩れていく。変わって、武家に担われた書院造(しょいんづくり)が、出現した。以後は、そちらが大勢を占めるようになる。私たちの教科書は、そんな風にも事態の推移を説明する。しかし、これも実際の住居変遷史には、そぐわない。 寝殿と対屋(たいのや)で前庭を囲う。寝殿造の肝と言うべきこの館構えは、江戸時代末期まで維持された。事実、京都御苑内にあった摂関家の屋敷は、そのスタイルを保ち続けている。けっして、途絶えてはいない。 ただ、院政期を迎えた頃から、貴族の住宅は、様々な変化をこうむった。とりわけ奥向きの居処では、時代に即応した新機軸を取り入れている。その過程で、のちの書院造にもつながる座敷飾りの数々は、生み出された。書院造が営まれる母胎に、寝殿造のあったことは、疑えない。 しかし、そういったしつらえは、みな寝殿造の周辺部分にあらわれた。中枢にあたる寝殿へは、およんでいない。書院造へと発展する要素は、言ってみれば寝殿にできたタンコブのようなものである。書院造は、このタンコブが自立して成立した形式にほかならない。 寝殿造の展開を、平安期だけにとどめず幕末期まで見すえた好著である。 [書き手] 井上 章一(いのうえ しょういち・国際日本文化研究センター所長) [書籍情報]『平安貴族の住まい: 寝殿造から読み直す日本住宅史』 著者:藤田 勝也 / 出版社:吉川弘文館 / 発売日:2021年03月19日 / ISBN:4642059202 京都民報 2021年4月25日掲載
吉川弘文館
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