「旧態依然の官僚制度、なぜなくならないの?」 経営学者の回答は
正当なものは非合理なのか?
こうして、官僚制の採用に関する新たな仮説が加わった。官僚制には正当性がある。だから採用しておけば社会からよく思ってもらえるだろう、みたいな目論見(もくろみ)から組織は官僚的になっていくのだ。非合理的だと思っていても、正当的だから取り入れることがある。「なんでそんなことやってるの?」「みんなやってるから…」非合理的であるにも関わらず、みんなやってるから、と言って制度を採用してしまう。 実に愚かにもみえる。ただ、立ち止まって考えてもみたい。われわれが「外」から、つまりその組織の外部から観察していたとして、あまりにも「他と違うこと」をしている組織を、信用できるだろうか。階層がないとか、文書を残してないとか、分業してないとか、そういった組織を。 とある会社と商談をしていて、イイ感じなので、ちょっと上の方と繋(つな)げてもらえますかと言ったところ、こう返されたとしよう。「ウチ、階層がない組織なんです。だから上司とかはいなくて。言うなれば全員が管理職ですね」。へぇ、先進的ですごいね、と言ってもらえるだろうか。その感想が正しいのかはおいといて、なんだこいつら、ヤバい会社か? 取引するわけにはいかないな…と思うのでなかろうか。 文書を残すという制度にしても、会社というのは、想像するより多くの書類を残す必要がある。社内のためだけでなく、外に説明するためだ。財務会計のため、人事の採用や評価のため、環境配慮のため。スポンサー、従業員、地域住民、様々な利害関係者に対して説明するために文書を残す。それは合理的でもあるし、正当でもあるはずだ。 逆に、組織が「文書なんかいらねぇよ」と宣(のたま)って、その組織にとってそれが合理的だったとして、許してくれる人ばかりではない。お客さんも不信をもつかもしれない。 つまり、正当性を重視するのは非合理的なのだ、というのは、ちょっとナイーブにすぎる。面倒ですけど、いちいち異論を挟んでいても仕方がないのでとりあえずやっておきましょうか、というのも十分立派な処世術であり、「合理的」なのだ。(文中敬称略)