「旧態依然の官僚制度、なぜなくならないの?」 経営学者の回答は
合理性仮説への批判
ただ、こうした「目的達成の手段としての合理性」のために官僚制は最も優れている、という言説に異議を唱える方もいるだろう。たとえば、そんなにうまくいくのか? 負の側面はないのだろうか? と。 歴史的にみても、著名な学者たちが既に官僚制批判を展開している。代表格が、社会学者ロバート・マートンによる「逆機能」の提唱である。つまり官僚制は、機能をもつが「逆」機能も働く。正の影響をもたらすと同時に、それは負の側面にもなるのだ。たとえば規則を遵守(じゅんしゅ)することは目的達成のための手段である。しかし構成員は次第に規則を遵守すること自体が目的化し、手段の実行に価値を置くようになる。 他にも「繁文縟礼(はんぶんじょくれい)」が挙げられる。文書主義が徹底されると、すべてが文字情報に起こされ、それらをすべてチェックすることになる。がしかし、多くの方にも経験があろうこととして、あまりにたくさん紙が配られるといちいち読まなくなる。内容の軽重もチェックしなくなるので、大事なことを見過ごしたり、逆に些末(さまつ)な情報をいちいち気にしたりするようになるかもしれない。 このように、マートンらが提起したのは合理性を担保するための文書主義がかえって非効率を招き、情報の把握を鈍らせるという、官僚制の負の側面としての「逆機能」であった。官僚制はまったく完璧ではなく、むしろ負の側面が見受けられる。そんな議論になったとき、官僚制をやめる選択肢は、浮上しないのだろうか。合理性を追求するはずの官僚制が非合理性を招いてしまうならば、採用する意味はないのだろうか。
理屈はともかく、正しいからやるのだという考え
官僚制は、合理的でないかもしれない。それでもなお官僚制が採用される意味を提起したのが、1983年にディマジオとパウエルが発表した論文である。タイトルは「鉄の檻(おり)再訪(Iron cage revisited)」で、まさに官僚制組織を主題にした論文だ。 官僚制は“iron cage”つまり鉄の檻と呼ばれてきた。既に述べたような、われわれを拘束し逆機能を発揮するというイメージを反映したメタファーである。ディマジオらは、この鉄の檻を再訪しよう、つまり改めて官僚制について考えてみよう、と提起したのである。 さて、再訪のひとつの結論として見出されたのが、世に官僚制が採用される根拠は正当性(legitimacy)にあるという仮説である。官僚制には、社会的な正当性がある。どういうことだろうか。 デュポンという会社がある。1935年にナイロンを発明するなど、世界を代表する化学メーカーとして著名だった。このデュポンは「中央研究所」とよばれる巨大で独立した研究組織を所有した企業のはしりであり、ナイロンもそこで生まれた。 デュポンの中央研究所が成功を収めると、多くの企業がマネして中央研究所を持ち始めたらしい。その企業の中には、研究開発を必要としていないとか、どうやるかわからないとか、そういった企業も含まれていたとか。そんなことが起きる理由を考えると、「正当性」だと結論づけることができる。理屈は置いといて、それが正しいからやるのだ、と。 要するに、ウチには不要かもしれないけど、みんなやっているからやっておくか、みたいな話である。なんか日本人特有の集団性みたいだなあ、と思った方のために、これはあくまでアメリカを舞台に提唱された話だということはお断りしておきたい。周りを気にして合わせようとするのは、どうやら古今東西にみられる行動であるのだ。 なおこの正当性仮説に基づいて、ディマジオらは非常に著名な概念である「同型化(isomorphism)」を提示している。組織は社会から正当だと認めてもらうために、同型化、つまり同じような構造を採用しようとするのだ。 たとえばコーポレートガバナンス・コードや環境規制など、法的に強制される同型化もある。スティーブ・ジョブズが活躍するとベンチャー界隈(かいわい)の人々がみなタートルネックを着始めたみたいに、そうあるのが相応(ふさ)しいという規範に則って同型化することもある。あとはデュポンの中央研究所のように、模倣、マネして同型化するパターンがある。