「シベリアの悲劇を決して忘れじ」 戦争犠牲者慰霊の旅を続け約35年、日ロ平和を願った抑留経験者の僧侶
旧ソ連のシベリア抑留と日本のシベリア出兵による日ロ両国の戦争犠牲者を悼み、慰霊の旅を35年余り続けた岐阜県揖斐川町の僧侶横山周導(よこやま・しゅうどう)さんが2024年8月、99歳の生涯を閉じた。「悲しい歴史を決して忘れず、1人でも多くの若い世代に平和の大切さを伝えたい」。晩年まで、ぬかるんだ草地を自らかきわけて読経をささげ、現地の住民らと草の根の交流を重ねた姿を振り返った。(共同通信=日向一宇) 【写真】広島で被爆した韓国人男性、「北朝鮮のスパイ」にでっち上げられる 「知らない」と否認すると、拷問が始まった 顔を殴ったり、眠らせてもらえなかったり 自暴自棄になり、ただ『やりました』と答えた…
▽20歳で徴兵、ソ連軍の侵攻に遭う 「全ての原点はシベリアにある。そこで仲間が待っているので、体力が続く限り、足を運びたいと思っている」。2017年8月、地平線まで続く畑と草原を走り抜けるシベリア鉄道の寝台列車。横山さんは、90歳を超えてもなお、自らを奮い立たせるように慰霊の旅に赴く理由をこう述べ、歩んできた人生を静かに語り始めた。 横山さんは、両親の負担を減らすため幼少期から寺で修行に入り、18歳だった1943年5月に満州へ渡った。「希望があふれ、憧れの土地だった」といい、訓練を経て吉林で念願の僧侶として歩み始めたが、戦局悪化の中で20歳を迎えると徴兵が待っていた。国境警備を担った当初は戦地の実感がなかったが、1945年8月9日に始まったソ連軍の侵攻で事態は一変した。哈達門周辺の山へ隠れて待ち伏せをした部隊は、持っていた最新の重機関銃などを南方戦線へ送った後。1人がかがんで入れる大きさの「たこつぼ」と呼んだ穴を道沿いに掘り、通過する敵のトラックや戦車に忍び寄って爆雷や手りゅう弾を投げ込んだ。
▽「だまされて、収容されてしまった」 終戦の知らせはポツダム宣言受諾から1週間以上も遅かった。指揮官は白旗を掲げて投降したのに、隊員は「自由に解散」とその場に放り出された。しかたなく吉林へ向かうと、途中で身柄を拘束され、日本海に臨むポシエットへ徒歩で移動するよう命じられた。途中で目にしたのは、畑や沼に放置された数多くの日本兵の遺体。幼い子どもを連れた母親が必死の表情で駆け寄り「せめて、この子だけでも連れて行って助けて」とすがってきたが、支給された食べ物をこっそり渡すことしかできなかった。 ポシエットで約1カ月が過ぎたとき、鉄道に乗せられた。「日本へ向かう船が着いた」と期待したが、列車は北へ、西へと進み、到着したのはシベリア奥地コムソモリスクの強制労働収容所だった。怒りで暴れだす人や家族を思って涙を流す人。「だまされて、ついに収容されてしまった。自分の体は自分で守り、一人残らず帰国できるよう力を合わせよう。頑張って生きてほしい」。元将校の呼びかけに過酷な現実を思い知らされた。