「シベリアの悲劇を決して忘れじ」 戦争犠牲者慰霊の旅を続け約35年、日ロ平和を願った抑留経験者の僧侶
高さ20メートルを超えるモミの木の密林は少し入れば、どこも同じ風景で方角を見失う。運び出した丸太を並べて土をかぶせると、ぬかるんでも崩れない道路になる。1日のノルマは1人1メートル。川に橋を架け、鉄道の敷地に山から破砕した砂利を敷き詰めた。「気温が氷点下60度だったこともある。1分もすれば、まつげが凍って前が見えず、体が棒のような感覚になっても必死に働くしかなかった」 粗末な食事も重なり、多くの戦友が目の前で命を落とした。1人ずつ埋めることができた遺体も、数が増えると大きな穴に次々と投げ込むだけ。地面が凍ると掘ることさえ不可能になった。 ▽帰国…涙で米粒が飲み込めず 収容所生活が約1年半を過ぎたころ、25歳以下から選抜して青年行動隊を組織すると知らされた。労働と並行して共産思想を徹底する赤化教育が強化される少し前。「よく働いた者は早く帰国できるというメッセージを信じ、手を上げた」。副隊長として住宅建設などに従事すると、約2カ月後に日本へ帰れると告げられた。ただ、隊長は本格的な思想教育として収容所に戻らないまま。「立場が逆なら、これほど早くは帰れなかった」
日本海沿岸のナホトカから引き揚げ船に乗り込んだのは1947年8月だった。「帰っても、受け入れられないのでは」という不安は、京都の舞鶴が見えてくると、全員で甲板に上がり「今度はだまされなかった」と喜びに変わった。上陸して真っ先に向かったのは、修行を始めた故郷の寺。住職の妻が炊いてくれた白飯に、あふれる涙が止まらなくなり、口にした米粒をいつまでも飲み込むことができなかった。 故郷での暮らしも楽ではなかった。仕事に就けず、ようやく見つかったのが、人員不足を補うために免許を持たないまま教壇に立つ小学校の助教諭。「肩身の狭い思いをした」といい、大学の通信教育などを受け、社会科の免許を取得したのは27歳だった。約30年に及んだ教員生活も「ずっと迷いの中で教えていた」と話した。戦前は軍国教育に染まり、戦後は共産国家のソ連に抑留。現人神の天皇が象徴となり、民主主義や自由の意味を理解しても、敵だった米軍占領下にあるという状況に「自分の考え方について腹が決まらず、なかなかけじめがつけられなかった」。教え子にも抑留経験は語らず、その理由を問われると、急激に変化する高度経済成長期の社会にあって「自分の経験が日常とあまりに懸け離れ、誰かに伝えようという気持ちが湧いてこなかった」と複雑な心境を口にした。