「シベリアの悲劇を決して忘れじ」 戦争犠牲者慰霊の旅を続け約35年、日ロ平和を願った抑留経験者の僧侶
▽弔いを終えても、押しつぶされた心 帰国後に初めてシベリアを訪れたのは、教員生活を終えた後の1983年8月で、58歳のときだった。当時は東西冷戦が続き、自由な訪問がままならない時期。抑留経験者で組織した「全国抑留者補償協議会」(解散)の一員として、ハバロフスクにある日本人墓地を訪れ、読経をささげ、法要を無事に終えた。ところが、戦友を弔えたはずなのに、心は押しつぶされていた。そこで目にしたのは、再会を信じていた妻が、夫が眠る墓にしがみついて涙を流し、いつまでも動けない姿だった。 横山さんは、自身の抑留が約2年で終わったことを「独身だった自分は帰れることがただうれしかった」と述べた。一方で「無事を祈って待っている奥さんやお子さんたちの気持ちまでは思いが及んでいなかった」。泣き崩れる女性の様子に自責の念があふれ出し、家族を思いながら亡くなっていった仲間の顔が次々と浮かんできた。それまでは抑留関係の活動に積極的とは言えなかったが、「これからの人生は僧侶として、できるだけのことをする。毎年お参りをしよう」と決意した。 ▽知らなかった日本軍の虐殺
その後、ホールやアルチョム、チタ、カダラ、イルクーツク、アルマータ、モスクワなど各地を巡り、日本人墓地で法要を続けた。同時に、放置された日本人墓地を捜していたとき、1991年に立ち寄ったのが、ロシアの極東アムール州にあるイワノフカという村だった。祖国に帰れなかった仲間の無念を分かってほしい―。そんな思いを伝えていたとき、ふいに話を遮られた。「村の住民が日本軍に虐殺されたことを知っているか」。真剣な表情の問いに、何も答えられなかった。 1918年8月、日本はロシア革命後の混乱に乗じ、シベリア出兵を開始した。主要都市や鉄道を占領したが、抗日勢力パルチザンのゲリラ戦に苦慮。部隊全滅も起きた日本軍は1919年3月、イワノフカを敵の拠点と判断し、総攻撃を命じた。周辺村落への見せしめの意味もあった。「過激派に加担するものは全部焼き払う」。戦闘は激しさを極め、穀物倉庫に37人を閉じ込めて放火。生き残ったのは地面のくぼみにいた男児1人のみで、上には子どもを守るように多くの遺体が折り重なっていた。殺害された住民は村全体で約300人に上った。