「世界に1台」トヨタの名車が98%ノーマルで現存 亡き妻もお気に入り「たくさんの思い出があふれてくる」
横浜で妻と何度もドライブに…印象的だった屋上駐車場での坂道発進
特にこだわったのはアンテナの位置だった。 「ノーマルは右の前に垂直にピューっと出てくる電動のアンテナだったんですね。それを左の後ろにちょっと角度をつけて電動で出るようにしました。とにかくアンテナ好き人間だったから、運転席から振り向いた時にちょろっと出ているのが見えるとうれしかった」 兄が戦後、鹿児島に駐留していたアメリカ軍の英語に興味を持ち、自前のアンテナを張って短波放送を聞いていた。その影響を受けた。 「昔のテレビの棒アンテナ、今のパラボラアンテナにしても、見えないものをキャッチするための道具じゃないですか。なんか未知の世界とつながるような感じがして、アンテナは飾りでもいいから車につけたいぐらい」と笑顔を見せる。 一方で、唯一つけなかったオプションは、カラーバンパーだった。 「ボディー色と同じ色のバンパーをつけるっていうオプションもあったんですよ。でも、バンパーはぶつけた時のガードだから必ず傷がつきます。傷がついたらみっともないから、これだけはやめといたほうがいいですって徳さんが助言してくれましてね。ですからバンパーはノーマルのメッキパンパーのまんまですね」 自分の稼ぎで買った初めての車。当時最新だったテクノロジーにも興奮した。 「当時としてはまだ珍しいパワーウインドーやクーラーがついていました。エアコンとは違い、ただただ冷たくするだけのクーラーですが、そういう先端的な技術が入っていましたね」 地元に戻るまでの約10年間、重永さんは横浜でセリカのある生活を満喫する。場所柄、外国人が多く、信号で停車すると、カメラを向けられることもしばしばあった。 「どういうわけか、ほとんどの人がホイールのところを狙って撮影していたような気がするんです。それが不思議でしたね」 横浜で知り合った妻とは何度もドライブに出かけた。 「あっちこっち行きましたね。夏には第三京浜を走って湘南海岸によく行きました。カセットテープで当時のはやりの歌を聞いてドライブするのがすごく楽しかったですね」 妻もセリカを気に入り、自らハンドルを握って運転した。 「横浜駅の近くだったかな。高島屋かなんかの駐車場が屋上にあって、そこが結構な急坂だったんですよ。家内は難しいセリカのクラッチでもエンストすることなく、上手に坂道発進していましたね」 ただ、“相棒歴”は妻よりセリカのほうが長かった。「結婚してしばらくたってから、『あなたよりもセリカのほうが付き合いが長いんだよね』なんて何気なく言った一言で、家内がちょっと寂しそうな顔をして。あれはちょっと失言だったかなと……」。愛車を得意げに語るあまり、気まずそうな雰囲気になったことも思い出の一つだ。