美術館は何のためにあるか。国立西洋美術館初の現代美術展企画者、新藤淳主任研究員にインタビュー
数値と価値の問題、藝大比率、そして内覧会での抗議について
―展覧会の主題の性質から、美術館に対してのさまざまな問題提起がありました。梅津庸一さんはこれまでとは違う美術史の編み方をしていくことが、お金など数値だけの評価から離脱するために必要だとしていましたが、この問題について新藤さんはどう考えられましたか。 新藤:新自由主義と呼ばれる政治方針のなか、この美術館も2001年に独立行政法人になっています。そうすると運営費交付金がどんどん減っていく一方で、自己収入を増やすということが求められてきます。ですので、美術館が入館者数やお金などの数値を切実な問題として抱えざるを得なくなって久しいわけですね。しかし、そういった数値化できるものだけを無批判な指標としてしまうなら、オルタナティヴなものを求める実験的な文化や芸術は衰退し、美術館のあり方も一元的になってしまうでしょう。そうではない批評基準──クライテリアをつねに探し続けなければいけないし、場合によってはつくり出していかなければいけないと思います。 ―また今回の展覧会に対して、東京藝術大学出身者の割合が多すぎるという指摘もありましたね。 新藤:藝大関係者が多かったというのは、出身者も含めて確かにそうだろうと思います。ただ、ほかの現代美術展と比較してみても、今回がことさらに藝大関係者ばかりかといえば、かならずしもそうではないはずです。梅津さんが主宰するパープルームには、国公立美術館での展覧会とは縁遠かった作家さんにも出品していただいています。さまざまな出自を持つ方々が参加してくださっていて、一定以上の多様さは確保されていると思っています。 上野という場所にフォーカスしたので、藝大関係者が増えてしまったというのはあります。また、はじめてこの美術館で生きている作家の方々をお呼びする展覧会ということで、大きな舞台での展示経験がある方に多くお声がけしたという実態はありました。私の出会いの有限性もありますし、観測範囲の限界もあるでしょう。それがひいては、ほかの美術展である一定の層の美術家ばかりが繰り返し呼ばれるというような構図を強化してしまうことにもなるのかもしれませんから、そういう意味ではやはり、具体的かつ自省的に考えていく必要がありますね。もっとも、出自の多様性が確保されていないとして批判されるべき展覧会は、実際には今回の企画にかぎったものではないと思います。 ―3月11日の内覧会では、飯山さん、遠藤麻衣さんら一部の参加作家と有志から、国立西洋美術館のオフィシャルパートナーである川崎重工への抗議が行なわれ話題となりました。これは、防衛省が攻撃用ドローンの導入を検討するにあたって選定した実証機の7機中5機がイスラエル製で、このうち1機の輸入代理店が川崎重工だったことが背景にあります。パレスチナで起きているイスラエル政府のジェノサイドに反対するという趣旨でしたが、新藤さんはどう捉えられましたか。 新藤:これについては現時点では私からは答えられません。いえ、当然ながら考えること、考えさせられることはとてもたくさんありますけれども、少なくとも現時点では何も申し上げることができません。