美術館は何のためにあるか。国立西洋美術館初の現代美術展企画者、新藤淳主任研究員にインタビュー
遠くを見つめることは、身近な他者を想像する力に
―未来のアーティストの触発、という主題のなかで、日本に国立として西洋美術館があることの特殊性についても検証したいという意図が窺えました。今回の展示を通して得られた見解はありますか? 新藤:西洋美術のみを収蔵、保存、展示することをアイデンティティにする当館は、ともすると日本が明治時代に「美術」という概念を西洋から輸入して近代化を遂げ、その後も欧米の美術を一つの範としながらこの国の美術史が展開していった様態を、ある意味では無批判に延命させる装置として機能するんじゃないかという考え方もできます。 とはいえ、世界的に見てもここはとても例外的な場所だと思います。というのは、ナショナル・ミュージアムでありながら自国のものを基本的に持たない──これはいわば、遠くの他者のことを想像せよ、と告げている美術館だと思うんです。しかもいまを生きている作家の産物ではなく、過去の人たちのさまざまな記憶を、です。 いまは「近く」のもののほうが瞬間的にSNSなどで次々に話題になって消費されていく──そういうサイクルのなかにわれわれは生きているわけですが、空間的にも時間的にも「遠く」にあるものを想像すること、距離のある他者をわかろうとすること、そういった可能性は、けっして捨ててはならないと思います。それがなくなってしまうと、隣の身近な他者について考える想像力すら衰弱してしまうのではないでしょうか。 そういう意味では、国立西洋美術館には確かに「西洋」という縛り、ひいては捨てることのできない西洋中心主義というものがあって、それは問題含みだとは私個人は考えているものの、やはりとても重要な場所だと思っています。時間的にも空間的にも遠いものを見ることで、今日をまた捉え直すことができる──新しい想像力や思考のために、過去は幾度でも見つめ直され続ける必要がありますし、美術史も編み直されていかなければならない。そういった場に、国立西洋美術館はなり得るはずです。 ―あらためて、新藤さんは研究員(学芸員)という立場で、一つの大きな制度である美術館という機関をどう捉えていますか。 新藤:美術館というもの自体が、どうあがいても西洋の近代が生んだ制度であることに変わりはないと私は考えています。その前提から眼を背けるべきではないと。つまり、美術館という制度そのものが植民地主義などと無関係ではないかたちで、そして近代的な価値基準と無縁ではありえないものとして生まれたわけですから──一方でそれをどう拡張していけるか、あるいは脱構築できるかというのが重要ですけれども──つねに根源を問い直していかざるを得ない場であると考えています。
インタビュー・テキスト by 今川彩香 / 撮影 by 前田立