美術館は何のためにあるか。国立西洋美術館初の現代美術展企画者、新藤淳主任研究員にインタビュー
誰かの顔を思い浮かべて、包摂を超えていきたい
―展覧会では新藤さんが登場する作品もありますね。「反-幕間劇ー上野公園、この矛盾に充ちた場所:上野から山谷へ/山谷から上野へ」という章では、弓指寛治さんが、山谷地区に約1年間通ってつくり上げたという膨大な絵画とテキストが並んでいました。一部には、新藤さんがアウトリーチに参加した際、路上生活者の人に「あなたのことを知っている」と言われた場面が描かれており、印象的でした。 新藤:弓指さんの作品ができていく過程で抱いたのは、反省ばかりでした。私は路上生活者の方々を「ホームレス」という──何て言うのかな……カテゴリーとしてしか見ていなかったと思うんです。通学、通勤で20年以上、上野に通っていますが、この「文化エリア」に内在する矛盾を強く感じながらも、路上生活者の方々は基本的には顔を知らないひとたちであり、弓指さんが描いたようには1人1人を「個」として見つめていなかった。気になる方というのは時期ごとにいたりしたのですが、ついぞ声をかけたことはありませんでした。 弓指さんと一緒にNPO法人・山友会さんが主催する上野のアウトリーチに参加していたとき、私の存在を認識していた方がいらっしゃって。そのときに突きつけられたのは、決定的な非対称性だったと思います。私はカテゴリーとして認識しているに過ぎなかったけれども、相手は個として、私のことを認識してくださっていた。そこでコミュニケーションが発生して、いまではその方と上野のなかでしばしばコミュニケーションをとる間柄になりました。 美術館のすぐ外には路上生活をしている人たちがいて、その近くに建っている当館は彼ら、彼女らにとってどういう場所なのだろうかということは、ずっと考えてきました。いま、コミュニケーションをとり始めてみると、実際に美術館にも何度も足を運んでくださった。スローガンとしての「インクルージョン」――つまり「包摂」を掲げることは容易いと思うんですね。けれども、今回の場合で言えば、弓指さんに教えられたとおり、自分たちの足で出向き、じかにコミュニケーションをとることが重要だったと実感しています。それはしかし、弓指さんの力があったからこそできたことで、私ひとりではできないことでした。完全に私の力不足です。 今後も引き続き、上野のみならずですけれど、アウトリーチなどの活動を続けていきたいと考えています――実際、展覧会が始まってからも続けているのですが。弓指さんと一緒にアウトリーチに参加し、美術館の近くにいらっしゃる路上生活者の方とコミュニケーションをとれるようになったことは、私自身にとっては、今回の展覧会の企画構成をつうじて生まれた、なにより大きな出来事だったともいえます。 ―路上生活者のみならず、さまざまな他者をカテゴリーに当てはめて見てしまうということは、誰もが陥りうる視点の問題だと思います。「誰しもに開かれた美術館」というのは確かに理想ですが、まず前提として個として考えることは大切ですよね。 新藤:「開かれた美術館」というスローガンを掲げるのも、やはり容易なことです。しかし、それもしばしばリベラルなポーズを示すにすぎないものであることが少なくないのではないかと思います。われわれが例えば入館者数などでしか認識できていなかったとしても、現実には個々人それぞれに異なる経験があります。とはいえ、実際のところ、そのほとんどはわれわれには知りえない経験です。できる限り個としての来館者と向き合う必要があるでしょうし、スローガンとしての「包摂」を超えていければと思いますね。 ―田中功起さんは、美術館に対する数々の「提案」を作品とされました。例えば、常設展の絵画を車椅子の人や子どもの目線に下げることや、展示室内の翻訳言語を拡張することなどですが、そのなかでも託児所は臨時で実現されたと聞きました。利用状況はいかがでしょうか? また田中さんからの提案についてどう考えられましたか。 新藤:託児所については、悪くない稼働率です。実際に継続してほしいという利用者からのご意見やご要望もあるようなので、実現できてよかったと思っています。 今回の田中さんの「提案」というのは、我々とのネゴシエーション、実現できたか、できなかったかも含めて作品化されています。そのプロセスのなかでもっとも考えさせられたのは、誰しもに最適化された美術館の状態を実現するのは不可能だということ。とはいえ、美術館は通常、暗黙のうちに健康な成年の人間の身体を前提にして絵画を展示する高さなどを決めています。田中さんのご提案というのは、そこに基準を設けるのではなく、例えば車椅子を利用される方や子どもにあわせるというラディカルなものでした。この美術館が考えてこなかった、いくつもの盲点を突いてくださったと思います。 誰に対しても平等に開かれた状態は、美術館は実現できないと思います──しかしその困難のなかで試行錯誤し続けていくことが大切だと、あらためて考えさせられました。 ―そういった認識が、先ほどの「包摂を超えたい」というところにつながるのでしょうか。 新藤:そうですね。やはり具体的なところから考えていくしかないんだと思います。理念的に「誰しも開かれた美術館」を容易くうたうのではなく、具体的に誰かの顔を一つひとつ思い浮かべていくことが重要なのではないかと。具体的に考えていかない限り、本当の意味での多様性や包摂に近づく可能性というのは見えてこないと思います。