日露戦争・旅順の戦い、乃木希典は想定外の局面にどう対応したのか…通説と異なる新しい知見で詳述
120年前の日露戦争を代表する戦い「旅順の戦い」について、新しい知見で詳述した「二〇三高地 旅順攻囲戦と乃木希典の決断」(角川新書、272ページ)を、福岡県粕屋町の戦史学者・長南政義さんが刊行した。多くの犠牲を出しながら旅順要塞を落とした日本軍の司令官・乃木希典(1849~1912年)が、敵の新兵器など想定外の局面にどう対応したかを分析し、指揮官のリーダーシップを論じた。(大石健一) 【動画】魚雷発射、方位盤に浮かぶ母の顔が「死ぬな」と…逃げる駆逐艦で「生きたい」と願った
1904年2月に日露戦争が始まると、中国・遼東半島にある旅順港のロシア艦隊が脅威となり、同港を囲む旅順要塞の攻略が必要となった。
乃木が率いる第3軍は、陣地をコンクリートで固めたロシア軍の近代的な設備や、新兵器の機関銃を前に苦しい戦いを強いられ、同年8月と10月の2回の総攻撃に失敗。11月の3回目も当初はうまくいかなかったが、目標を要塞の一角「203高地」に変更して占領に成功し、05年1月に陥落させた。
しかし、日本軍の死傷者は5万9408人に上り、戦いの悲惨さは、司馬遼太郎の小説「坂の上の雲」や東映映画「二百三高地」(1980年)で描かれた。総攻撃を繰り返し、多くの犠牲者を出したことから、乃木については「無能」との評価も多い。
長南さんによると、旅順の戦いに関するこれまでの研究は、乃木に批判的な「機密日露戦史」に依拠するところが多かったという。
長南さんは2014年に「日露戦争第三軍関係史料集」をまとめ、軍司令部の参謀たちの日誌や回想録などの新資料から、通説と異なる事実を多数発見した。
今回の著書では、長州藩出身の乃木が司令官になったのは「藩閥人事」によるものとする俗説に対し、実は「順当で常識的な人事」だったと反論。陸軍中央が独力でロシア艦隊を無力化することにこだわった海軍の体面を重んじたため、攻略の準備が遅れ、ロシア側の防備が強固になったことなどを指摘している。
長南さんは「総攻撃失敗の最大の原因は、大本営(軍中央)の甘い情報に基づく準備不足」と分析する。