『ゴジラ』作曲者が「ハリウッド版」を見て、覚えた違和感…元祖ゴジラとの「決定的な違い」があった
『シン・ゴジラ』や『ゴジラー1.0』は原点回帰
――今回のCDで従来のファンはもちろん、また新たにゴジラの音楽を聴くファンも増えると思います。昭和で一旦ピリオドを打ちつつ、平成以降もまた続くことになるゴジラはずっと新しいファンがついてくる稀有なシリーズですよね。 本来ゴジラっていうのは昔から祀られてきた神社の祝祭と鎮魂を象徴するような、人間の知恵を超えた存在であると。もしかすると最初に『ゴジラ』の企画が出された時、一番深くその意味を理解していたのは、プロデューサーよりも監督よりも役者よりも伊福部先生だったんじゃないかなっていう気がしてます。 ゴジラは人間の奢りや高ぶりを諌める存在として出てくる。でもそれは人間側からの勝手な理屈であって、ゴジラはそんなこと何も考えてない。突然現れて、一言で言うと不可解。伊福部先生の音楽にもそこが表現されてるんじゃないですかね。 ジャン・レノが出たアメリカ版GODZILLAゴジラ(1998 監督:ローランド・エメリッヒ 音楽:デビッド・アーノルド)の日本でのプレミア上映があって、先生にも来ていただいたんです。その帰り、先生があまりご機嫌じゃなかったので「映画どうでした?」って伺ったら、「不思議がなくなりましたね」って一言。あの映画はゴジラに科学的な理屈をつけてるんです。先生はそこに違和感を覚えたらしく。もう二の句がつげないという感じでしたね。 ゴジラは3作目の『キングコング対ゴジラ』(1962)から変わっていきました。それはエンターテインメントとしては正しかったのかもしれない。平成ゴジラもずっとそういう形で来ましたけど、それをもう一度、理屈もなく突然現れて暴れ回って帰ってくっていう、そういうゴジラに戻したのが庵野(秀明)監督であり、山崎(貴)監督というわけで。 あの2人はちゃんと深くわかってる。変な理屈はつけてないなと思って作品を観ました。『シン・ゴジラ』や『ゴジラ-1.0』は伊福部先生がご覧になっても納得される映画じゃないかな。