読書のプロ・鴻巣友季子がおすすめ「2024年必読の21作品」を一挙紹介します!
わたしたち小説
13 朝比奈秋『サンショウウオの四十九日』新潮社 2024年は「わたしたち」という二人称複数形を主語にした小説が豊作だった印象がある。織田作之助賞を受けた町屋良平『生きる演技』(河出書房新社)のように、読者を巻きこんでくるような「われわれ」が出てくる作品もあれば、集合無意識としての「わたしたち」を主語にした小説もある。 朝比奈秋がついに芥川賞を受賞した『サンショウウオの四十九日』にはこのような記述が出てくる。「私たちは、全てがくっついていた。顔面も、違う半顔が真っ二つになって少しずれてくっついている。結合双生児といっても、頭も胸も腹もすべてがくっついて生まれたから、はたから見れば一人に見える」という双子が主人公だ。 日本語文学では、ゼロ年代から2010年代にかけて、視点と人称にかんする技法が盛んに取り入れられるようになった。一時は「移人称」とも呼ばれた山下澄人や柴崎友香の視点のバイオレーションを伴う語りや、突然に、あるいはいつのまにか視点がシフトしたり融合したりする小山田浩子、滝口悠生、島口大樹らの手法を私たちは体験してきたのだ。 『サンショウウオの四十九日』に至って文字通り「二人で一人」というキャラクターを得て、こうした転換や融合が実体をもって展開されているスリルがある。人間の思惟はどこで司られているのかという問いは、人間には肉体から独立した心というものはあるのかという問題にも繋がるだろう。「わたしたち」小説の名作群に連なる一作。 14 小林エリカ『女の子たち風船爆弾をつくる』文藝春秋 毎日出版文化賞(文学・芸術部門)受賞。1935年から2023年までの日本を舞台にした”叙事詩”である。幕開けは昭和10年(1935年)、有楽町の街には日劇や、日比谷映画館や、東京宝塚劇場が燦然と建っていたが、やがて宝塚劇場は風船爆弾の製造工場になり代わってしまう。 主語は一人称単数の「わたし」または三人称複数の「少女たち」だが、所有格は必ず「わたしたち」と書かれるのがトリッキーだ。これは単に女の子たちの複数形を表してはいない。「少女たちは、わたしたちの満州、わたしたちの朝鮮で、第三回満州公演をすることになったのだった」というように、「この日本国の/日本軍の」という意味をも持ちあわせた所有格なのだ。作者はこれを作中で延々と反復させる。 「女の子」たちの感覚とは相容れないだろうこの支配的な所有格を、作者は何百回も執拗に繰り返す。どんなに嫌悪したくなる言葉と概念でも、彼女たちも私たちもその歴史に連なるざるをえないのだと念を押しているかのようだ。 しかしこの「わたしたち」という所有格の回路によって、パラレルに存在する数多の女学生の「わたし」と宝塚の「少女」たちは出会って交感し、一つの悲惨な時代を共有した(させられた)抵抗感と一体感が醸成されるのだ。分散と収斂、反発と融合を成し遂げる企図に充ちた文体と言えるだろう。小林は本作で、小説が掘りさげてきた人間の内面なるものをあえて排した果敢な叙事性を追究している。 15 ジュリー・オオツカ『スイマーズ』小竹由美子/訳 新潮クレスト・ブックス 「わたしたち」小説の傑作『屋根裏の仏さま』の作者による連作短編集だ。5章のうちの第1章、第2章、そして第4章が「わたしたち」という一人称複数主語で書かれている。とはいえ、第1・第2章と第4章では、Weの示すものと意味合いのコントラストが鮮烈だ。ここは読み逃さないようにしたい。 第1章では、水泳への愛によって結ばれている公営プールのスイマーコミュニティが描かれる。ところが、第2章でプールの底に小さな「ひび」が見つかるのだ。すると、不安がじわじわと広がっていく。第3章では主語が三人称単数の「彼女」に切り替わり、ある病を得た人物の生涯が浮彫りになる。 第4章の「わたしたち」は一転して営利目的の介護施設の職員だ。「わたしたち」はきっぱりこう言う。「(この病は)進行性で、治療は難しく、元の状態には戻りません。結局のところは人生それ自体と同じく、終末へと向かうだけです」と。 最終章は「あなた」という二人称主語にスイッチする。「あなた」が待ち構えていたあるものとはなにか? 主語の人称と視点をダイナミックに切り替えながら人生のささやかな瞬間を映しだす珠玉の作だ。