津波の脅威伝える旧防災対策庁舎と南三陸311メモリアル:さんさん商店街で海の恵みも実感
東日本大震災の津波で職員と住民43人が犠牲になった宮城県南三陸町の旧防災対策庁舎。「見るのもつらい」という遺族感情と、災害の教訓として保存を求める声との間で揺れていた南三陸町は、震災から13年を前に、2024年3月1日、震災遺構として保存する方針を発表した。庁舎がある「南三陸震災復興祈念公園」、隣接する伝承施設「南三陸311メモリアル」は、震災の記録と記憶、防災の大切さを後世に伝えていく。
防災対策庁舎が残る南三陸復興祈念公園
東日本大震災の津波で、831人もの町民が犠牲となった宮城県南三陸町。住民に避難を呼びかけ続け、多くの町職員が津波に飲まれた防災対策庁舎の悲劇はメディアでもたびたび取り上げられてきた。建物がほとんど流された荒野に、がれきや漁具が絡まった状態でポツンと残る赤い鉄骨は、津波の脅威を伝える象徴的な風景だった。 防災対策庁舎の周辺は現在、「南三陸町震災復興祈念公園」として整備されている。東側を流れる八幡川の対岸には、東日本大震災の伝承施設「南三陸311メモリアル」や「南三陸さんさん商店街」もあり、慰霊と津波被害の伝承の地、そして新鮮な海の幸を味わえるスポットとして訪れる人が増加中だ。
当初予測は6メートル、実際の津波は15.5メートル
南三陸は1960年にも、高さ5.5メートルのチリ地震津波に襲われ、町民60人が命を落としている。その教訓を生かして95年、海抜1.7メートルの場所に鉄筋コンクリート3階建て、屋上の高さ12メートルの防災対策庁舎を建造。津波で1階が浸水することを想定し、対策本部は2階に設置された。 2011年3月11日、東日本大震災の発生3分後の午後2時49分時点に気象庁が発表した津波予想は6メートルだった。2階の床でも海抜6メートル弱あるので、町職員らは「3階まで上がれば大丈夫」と考え、庁舎の放送室から地域住民に高台への避難を訴え続ける。しかし午後3時14分、大津波警報は「10メートル以上」に引き上げられ、職員らは屋上へと急いだ。 午後3時33分、実際に防災対策庁舎へ到達した津波の高さは15.5メートル。屋上にいて命を落としたのは43人、そのうち33人が町職員だった。生き延びたのは外階段の最上部にある手すりに押し付けられたり、挟まったりした10人と、アンテナにつかまっていた2人。波に飲まれながらも、流されてきた畳にしがみつき、志津川病院にたどり着いた男性も1人いた。 津波が収まった後も地獄だった。気温が氷点下となる中、ずぶぬれになった身体で風を受け、水も食糧もない。屋上から壊滅した町を見下ろしながら、絶望と寒さで飛び降りようと考えた人もいた。それでも励まし合いながら、奇跡的にぬれなかった100円ライターでたき火を起こし、なんとか夜を乗り越えて翌日救出された。