非常時に決断できない日本社会 コロナ問題の変化スピードについていけない理由
「軍」と「企業」と「町内会」
組織のあり方を表現するのに「軍」と「企業」と「町内会」を例に出すと分かりやすい。 軍は、今述べたように拙速を「良し」とする。しかし町内会は違う。どんなに時間がかかっても、よく議論し公平に決める必要がある。企業はその中間だろう。議論と速度と正確さがバランスしている必要がある。もちろん財閥系の大企業と個人的なベンチャー企業ではかなり異なる。 政府のあり方は、社会状況を写すので、時に軍になったり、企業になったり、町内会になったりする。近代日本でも、文明開化、富国強兵、戦後復興など、目的がハッキリしてマッタナシの状況においては、軍のように「拙速」を尊んだのだが、平和と繁栄が続けば、町内会のように「拙速」を嫌うようになるものだ。 現代日本の平和民主主義社会は、すべての決定機関が「町内会」になっている。 テレビ番組のキャスターはよく「徹底した議論が必要です」と結ぶ。しかし「議論すればいいというわけではない」ことは多くの人が感じている。クラス会でも、教授会でも、何らかの委員会でも、愚にもつかないことをいつまでも議論したがる人がいるものだ。ルールとマナーが根づいていない社会では、議論が必ずしもうまく機能しない。逆に、反対意見を聞いていると時間がかかりすぎるので、できれば議論を避けてすんなり決定したいという思惑がはたらく。政府でも企業でも「密室でものごとを決め、根回しで既成事実化する」という手法が好まれるのだ。日本の決定機関ではほとんどが「満場一致」で可決するが、それは決して議論の余地がない最善策であることを意味していない。
町内会政府からの脱却を
山本七平は著書『日本人とユダヤ人』(角川書店)で「ユダヤ人は満場一致の案は否決する」と書いている。満場一致は最善策どころか、むしろ悪い選択であることが多いという意味だ。 たとえば都市や建築のあり方でも、テレビ報道では「完全な安全」を求める発言がなされる。しかし専門家にはそれがあり得ないことが分かっている。技術というものはすべてある程度危険であり、技術者はその危険の度合いが、限界を超えないようにギリギリの努力を続けているのだ。理論的にいえば「十分な議論」「十分な安全」というものは存在しない。頭の中の「十分」を「九分か八分」ぐらいに切り替えなければならない。 社会は時に拙速を求める。今の日本には「日本評定」と「町内会」から脱却するスイッチが求められている。一挙に「軍」に切り替えるのは難しいが、少なくとも平時には「企業」的な決断と行動のスピードが、非常時には「軍」にも似たスピードが必要だ。 とはいえ「戦争の準備をしろ」というわけではない。むしろ逆だ。 イージス・アショアだ、敵基地攻撃能力だ、と論じているが、平和を維持するには、軍事力以上に、臨機応変、迅速柔軟な外交能力こそが必要なものであり、戦前の日本にはそれが決定的に欠けていたことは歴史が示している。 そしていったんことが決まれば、日本社会がきわめて精緻に作動することは、今回の新型コロナウイルスへの対応でも証明された。何かを少し変えればうまくいくような気がする。要は、適度な議論、時を得た決断、果敢な行動、そのバランスである。 「常在戦場」とは、むしろ平和国家としての精神と考えるべきだ。