非常時に決断できない日本社会 コロナ問題の変化スピードについていけない理由
「小田原評定」が「日本評定」に
「小田原評定」という言葉は、大軍で小田原を包囲した豊臣秀吉が、石垣山の上に一夜城(実際にはそれなりの日数をかけている)を築いて小田原城を見下ろしながら降伏を進める使者を送ったとき、北条側は城内で評定(現代でいえば委員会)を続け「ああでもないこうでもない」と時間を浪費したことをいう。要するに「埒が明かない」という意味だ。 織田信長は、短気者といわれるほど即断即決即行動の武将であった。豊臣秀吉は、周到な根まわしによる調略と、水攻め兵糧攻めなどを得意としたが、中国大返しや築城のスピードなどは神技であった。徳川家康は家臣の意見をよく聞いたが、決断の責任は自分が取り、決まれば三河武士は鉄の団結で即行動した。この三人はそれぞれ性格が異なり、それが戦略や戦術に反映されているのだが、決断と行動のスピードは他の武将を圧倒していた。つまり時代の変化に乗ったのだ。 司馬遼太郎は戦国時代とともに明治維新から日露戦争あたりまでを小説のタネにしたが、それは、その時代の日本人の決断と行動に小説的なスピード感があったからだろう。しかし満州事変から太平洋戦争に向かうあたりから、幕末の江戸幕府に似た「小田原評定社会」になったようだ。また戦後も、復興と成長過程では、政府も企業も決断と行動が光ったが、経済大国といわれるバブル経済のあたりから再び「小田原評定社会」に戻っていった。繰り返しである。 現在「日本評定」という言葉はないが、それに近い評判が、海外の日本通のあいだで常識になっているようだ。つまりアメリカや中国をはじめとする諸外国には、平時であっても戦時を想定した社会運営のDNAが組み込まれているが、今の日本にはそのDNAがなくなっているということだろう。島国は島内の安心に浸りきって非常時のスピード感を失ってしまう傾向がある。 「兵は拙速を尊ぶ」という。孫氏の兵法だ。「拙速」というのは、拙(つたな)くて速いということで、必ずしも良い意味ではないが、こと軍事に関しては、少しばかり問題があっても、早く決断し、早く行動することに価値がある、という意味である。