「速いウイルス」と「遅い日本政治」 NZに学ぶ感染症対策に必要な「改革断行力」
マスコミ各社の世論調査結果を見ると、菅内閣の支持率が続落傾向にあります。新型コロナウイルス感染症対策で緊急事態宣言を発出しましたが、「タイミングが遅い」「指導力がない」など後手に回っている印象が強いようです。 「緊急事態宣言」と「日本特有の飲食店コミュニケーション文化」 建築家で、文化論に関する多数の著書で知られる名古屋工業大学名誉教授・若山滋氏は「緊急事態に迅速に対応する力」と「改革を断行する力」は同じタイプの力ではないか、といいます。若山氏が独自の「文化力学」的な視点から論じます。
「兵は拙速を尊ぶ」
「兵は拙速を尊ぶ」という。緊急事態においては少々まずい作戦でも速い方がいい、どんな上策でも時間がかかっては間に合わないということで、元は孫子である。 どうも、新型コロナウイルスに対する日本政府の対応は遅い、という印象をぬぐえない。緊急事態宣言を出し特措法の改正を急いでいるが、すでに日本医師会会長は「このままでは医療崩壊から医療壊滅へ」と発言している。ワクチンの接種を始めている国も多いが日本では承認に時間がかかっているようだ。安倍政権のときも、安保法制を強引に可決した政権であっただけに、非常時の実戦的対応力を期待したのだが、案外と期待外れであったので、モリ・カケ・サクラ・ケンジといったデメリットが大きく感じられたのだ。安倍政権を受け継いで、改革のスピード感があるといわれた菅政権も、同様の経過をたどっているのではないか。 少し前まで「Go toキャンペーン」を展開し、例の「ステーキ会食」が発覚して謝罪した総理が、あわてているように見える。首都圏以外の大都市圏への緊急事態宣言発出では「数日様子を見る」といったが、1日遅れればかなりの犠牲者が出て、3日遅れれば致命的な事態となるのがこのウイルスだ。政府の対応がその感染スピードに追いついていない。すでに日本にも感染力の強い変異種が広がっているようにも思える。
歴史を制した戦国武将の「速度」
もちろん、こういった批判は結果論の気味もある。マスコミでも経済界でも「Go to」をそれなりに評価していたのに、今は手のひらを返したように批判している。また欧米はもっと大変なことになっているのだから、日本に限らず、民意を得る手続きを経なければならない国の政府の対応には限界があるのかもしれない。 しかしそれでも、結果はさておき、他国に比べて現在の日本政府の対応が遅くて緩いという感は免れないのだ。水際、検査、隔離、緊急事態対応の法制化、ワクチンの開発と認可――。何もかもが他国に遅れをとっている。韓国もある程度感染が広がっているが、対策は日本よりはるかに迅速で徹底していた。 そもそもコロナ以前の平常時において、日本政府は、時間をかけて案を策定し、複数の協議と会議を経て、それでも何も決まらないというようなことが多い。「小田原評定」だ。また意見が決まる過程で反対意見を取り込むために、いわゆる「ザル法」になりがちである。マスコミも必ずといっていいほど「もっと議論すべきです」という言葉を締めに使って政権を批判してきたが、実のところ、必要な議論が足りないのか、無用な議論をしすぎるのかは微妙なのだ。最近は、政府だけではなく、民間の大企業においても同様のことが起きている。 たしかに平時においては、多少時間がかかっても徹底して議論すべきかもしれない。それが民主主義というものだ。しかし危機に臨んでは、その「時間」が国民の命を奪うのである。 日本人に決断力がないというわけではないだろう。明治維新後の文明開化、戦後の復興にはスピード感があった。要は現代日本における危機感の欠如である。まったなしの状況になれば実力を発揮すると信じたい。 「兵は拙速を…」という言葉にもっとも実感があったのは戦国時代だ。武将たちは誰も、決断と行動のスピードを重視した。織田信長は、桶狭間の戦いにたった一騎で飛び出して兵たちはそれを追うのがやっとだったという。本能寺の変のあと、羽柴(豊臣)秀吉の「中国大返し」の速さは不思議なほどだ。同じときの徳川家康の迅速な三河帰りは「神君伊賀越え」として語り継がれている。イザというときに歴史を制するのは「速度」であるのかもしれない。