群ようこ68歳にしてお茶を習う。4カ月経ち、格式の高い濃茶に挑戦。いろはを唱えて練った初の濃茶は、折れた茶筅の穂先が二本入っていた
「お濃茶になると、帛紗の四方捌きがありますからね」 「闘球さんや、白雪さんがやっていた、帛紗を広げてじっとみる、あれですか」 「そうです」 帛紗を広げて四辺を確認し、それからお茶入を清めるために、薄茶のときと同じように帛紗を捌くのである。私の帛紗には柄があるので、それで裏表もわさの位置も確認できるのだけれど、師匠や先輩方の帛紗は無地なので、よくあれでわからなくならないなあと失礼ながら感心するばかりだ。 「お濃茶には必ず拝見がありますからね。重要なセレモニーなので」 カジュアルな薄茶でさえうまくできないのに、そんな重要なお点前が覚えられるのだろうかと不安になってくる。あまりに緊張しすぎて、干菓子をいただく際に、今まで何回もやってきたのに、懐紙のわさが手前になるのか向こう側になるのかわからなくなり、師匠にそっと聞いてしまった。こんな超初心者の私が、濃茶のお点前を習っていいのだろうかと心配になってきた。 先輩がたが揃うのを待って、濃茶のお点前を教えていただいた。濃茶ではお茶を入れる際に、最初に茶杓で三杓掬いだしたあと、お茶入を傾けて残りの抹茶を回し出しする。お茶入は筒状ではないものが多いので、スムーズに出てこない。 つい全部だそうと、茶碗の上で振りたくなってしまうのだが、そういうことはしてはいけない。あまりに傾けるとお茶入を茶碗の中に落としそうになるし、緊張の連続だった。そっとのぞくとお茶入の中に残って、うまく回し出せなかった。
「薄茶は点てる、お濃茶は練るといいます。いろは四十八文字を心の中でいいながらゆっくり練るとよいといわれていますけれど」 操り人形のように師匠に指導されるまま、 「このくらいでいいでしょうか」 と楽茶碗に入れたお湯の量も確認していただき、 (い、ろ、は……) と心の中でいいながら茶筅(ちゃせん)を動かしてはいたが、その練るという感覚がまったくわからなかった。闘球氏や白雪さんのお点前を見ていると、たしかに、 「練ってる」 という感じはするのだが、具体的にどのようにすればいいのかわからず、とにかくとろりとするように抹茶を混ぜたといったほうがいい状態だった。おそるおそる茶筅を上げると、茶筅に残った抹茶の色が薄かった。おまけに茶筅の穂先の細い竹が数本折れていた。力を入れすぎて、折ってしまったらしい。 正面を正客に向けて出そうとしたら、私の体に近い部分の茶碗の内側に、抹茶の粉が溜たまっているのに気がついた。全体的に練らなくてはいけないのに、その部分だけ茶筅が届いていなかったらしい。 「あの、中に抹茶がそのまま溜まっているところがあります。そのうえ茶筅を折ってしまいました。きっと中に入ってます」 焦って報告すると、闘球氏も白雪さんも、 「はい、わかりました」 とにこにこしている。きっとおいしくないであろう、最初のお濃茶を飲んでいただくのは本当に申し訳なかった。先輩方がそっと口の中から何かを取りだして懐紙に包んでいるのを見て、きっとあれが私が折った茶筅のかけらだろうと思うと、何度頭を下げても足りないくらいだった。最後に私も飲んでみたが、何の感動もない味で、折れた茶筅の穂先が二本入っていた。
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