『忠臣蔵』に見る日本文化の「怨念の力学」
管理社会における歌舞伎の情念
歴史的には「赤穂事件」と呼ばれる元禄時代の出来事であるが、幕府批判に当たらないよう時代を変えた戯曲『仮名手本忠臣蔵』によって浄瑠璃、歌舞伎の人気演目となり、現在に至るまで、芝居、映画、テレビドラマにおける定番となる。 この衝撃的な事件については、当初から学者たちに賛否両論が沸騰した。 室鳩巣(むろ・きゅうそう)は「義士であるから無罪である」と主張し、政治的影響力のあった荻生徂徠(おぎゅう・そらい)は「社会秩序の点から処罰すべき」という意見。いわば戦乱に明け暮れた時代から平和と繁栄の時代に入った武家社会における思想の葛藤があったのだ。 現在なら法に触れる暴挙として断罪されるであろうが、武家諸法度を中心とする江戸幕府の法治主義的な管理社会に息苦しさを感じていた当時の人々(特に江戸っ子)は、義士たちに喝采を送った。法より武士道、理論より情緒という空気は歌舞伎に反映され、「仇討ち」がひとつの物語文化として広がった。 その文化力学を理解するには、鎌倉時代から元禄時代に至る「武士道」というものの変遷を追う必要があるだろう。
武士道の変遷―実力・策謀・道徳
初期の武士道は、『平家物語』に見るように、都(京都)の貴族文化に対する関東武士団の文化、すなわち形骸化した律令制と堕落した貴族の政治に対する実力主義として現れる。武家社会の到来は、生産手段としての農地の実質管理者が国を運営するという、近代化にも似た革命であった。関東を中心に拡大した武士団は、血縁と地縁を中心に、恩賞と忠誠の関係で結ばれていた。 中期の武士道は、「下克上」に始まり、乱世といわれた戦国の世において、各地を独立国家的に治める大名や武将たちが、政略、戦略、戦術を駆使して、戦い抜き生き抜いた武士道である。策謀が渦巻く社会であったが、それだけに忠誠にも苛烈なものが求められた。一種のマキャベリズム(必ずしも悪い意味ではない)をも含む生存競争の武士道である。 後期の武士道は、江戸期の儒教化した武士道である。徳川家は長い戦いに荒んだ武士の心を安定させるために、儒教、特に朱子学の普及に力を入れた。しかしもともと、日本の武士層の主君に対する絶対的な忠誠と命をかえりみない行動は、中国の官僚や士大夫層の道徳とはズレるところがあり、理論に傾いた朱子学には収まらないところがあった。 その朱子学的儒教と武士道の矛盾、道徳と忠誠の矛盾、理論と行動の矛盾が赤穂事件に現れたともいえる。 討ち入りでは「山鹿流の陣太鼓」が有名だが、この事件には、山鹿素行という「士道」を提唱した兵学思想家が、幕府の方針に抵触し(朱子学の批判)、赤穂に流され、その思想がその地の武士たちに受け継がれたことも下地になっている。 平和に向かう社会において、激越な戦闘と忠誠の倫理観が「異端」となり、辺境に居場所を見いだすというのは、九州鍋島藩の武士道書『葉隠』などにも読み取れる。いわば素行の流刑者としての怨念が赤穂事件となって表面化したのだ。そう考えれば、この事件にも思想闘争の一面があり、幕末における長州萩の吉田松陰などにもつながる、中央と辺境の精神的葛藤の力学が感じられる。