『忠臣蔵』に見る日本文化の「怨念の力学」
水に流すための決算
よく「日本人は水に流す」といわれる。あれほどの激しい戦いのあとに、アメリカの支配を整然と受け入れたことにアメリカ人自身が驚いたほどだ。 しかしよく考えてみると「水に流す」には条件がある。流す前に「恩と仇」が決算されていなければならない。日本文化には「恩に報い仇を討つ」という契約に似た倫理観のようなものがあることは、日本文化論の古典ともいうべきルース・ベネディクトの『菊と刀』でも強調されている。 「恩に報い仇を討つ」ことは、金銭的なものではないが、ある種の貸借関係の決算であり、「みそぎ」でもある。その精神的決算が済んでいれば、きれいに水に流すことができるが、未済であれば何らかの心的な歪みが残るのだ。 つまりある事件によって生じた怨み、あるいは長年積み重ねられた怨み、そういった「怨念」は、何らかのかたちで晴らされなければならない。これを現世で晴らすのが「仇討ち」であるが、死んだあとにまでもちこされれば「宿怨」となり「怨霊」となる。 日本社会には、法治とはまた別の精神的な「怨念の力学」ともいうべきバランスが働いている。
怨霊の文化・もちこされる怨念
歌舞伎にも影響を与えた舞台芸能のもとは能であるが、そのストーリーには、旅の僧(諸国一見の僧)が、里人に取り憑いて荒れ狂う怨霊に出会い、その怨念の経緯を聞いて魂を鎮めるという話が多い。つまり宿怨の物語だ。 一般に菅原道真、平将門、崇徳天皇を日本の三大怨霊と呼ぶ。「学問」と「戦闘」と「血筋」に関わるもので、現在もその怨霊を祀る神社が多々ある。僕は現代の寺社運営には批判的なところがあるが、お参りは結構する。特に天神様とか天満宮というものには、学問の神(道真)を祀るので、それなりにしっかり礼拝する。そして何となくその御利益を感じることもある。多くの日本人がそういう「何となく御利益」の気持ちで神社に参拝している。つまり日本人は、怨霊というものを怖がるばかりでなく、自己の守護神として大切にする傾向があるのだ。 また前にも書いたように、日本は自然災害の多い国であるから、これを怨霊と結びつけ、祈祷によって鎮めるのであり、それが神仏習合の契機ともなる。怨霊の文化にも、風土というものが働いている。 こういった怨霊は多く平安時代もしくは源平合戦期のもので、武家の世は、その祈祷的文化に対するものとして成立したところがある。つまり仇討ちとは、怨念を死後にもちこすのではなく、現世において片づけるという、いわば近代社会に似た現実主義の論理なのだ。能のストーリーにもそういった「武の論理=現世優位」が働いているのかもしれない。