多様性を叫ぶのに不倫を許さない日本、妻の前で愛人遍歴を語った勝新太郎のように夫婦のあり方は多様でいいのでは?
■ 『文藝春秋』に掲載されていたすごい不倫話 鈴木:『文藝春秋』に掲載された恋愛や不倫の記事を遡って読んだことがありますが、中には勝新太郎と中村玉緒の夫婦対談などもあり、勝さんは自分の愛人遍歴を妻の前で平気で話していました。 勝さんがトイレから「ちょっと新聞持ってきてくれ」と呼んで、玉緒さんが持ってきた新聞3紙全てに自分の不倫が掲載されていた経験なども、笑いながら2人で語っている。 新聞で報道されているから、当時も不倫はスキャンダルでしたが、欧米とはどこか異なる許容のされ方が日本の文化の中にはある。勝さんと玉緒さん夫婦はそれで成立していて、そこに独善的に決まった倫理を押し付ける感覚は、今ほど強くなかったように感じます。 私の友人の乙武洋匡さんにも不倫報道がありましたが、夫婦間の価値判断を超えてそれを許しがたいと感じる人は少なくありません。それは、「夫婦とはこうあるべき」という価値観を、特殊な形で成立している夫婦にも当てはめる行為だと思います。 夫婦という概念に関して、意外と多様性を殺す方向に時代が転がっている怖さはちょっとありますね。 ──2000年代前半までは、「クレイジーなほうがかっこいい」という感覚が今よりもずっと強くあり、反抗や性愛などをより逸脱したエキセントリックな形で表現したい衝動があったように感じます。そういう時代を経て、多様性と言いながら、現代の若者は総じてかなり保守的な恋愛観になっているように見えます。 鈴木:多様性が意識されるようになった側面はあると思います。 LGBTQ、障がい者の性、女性の性欲、お年寄りの性、母親の恋愛といった、かつては黙殺されていた世界に光があたるようになった。アセクシャル(他者に性的欲求を抱かない人)やノンバイナリー(男性、女性という従来の性別に当てはまらない人)などの視点も増えました。 一方で、かつて許されていた夫婦のあり方に対しては、許容が少なくなっています。「浮気は男の甲斐性」という価値観の中で苦しんでいた人がいるのであれば、救わなければならないけれど、「浮気は男の甲斐性」で成立していた夫婦もいたこと自体に、蓋をしようとしているのかもしれません。 逸脱した生き方を選ぶ無頼派のような人たちにも、平均的な倫理観を求める風潮がある。文学の世界の中には、そうした多様な夫婦や愛の形が保存されているような気がしますが、今そんなに無頼な作家もいないですよね。西村賢太さんも亡くなってしまった。 島本理生さんや金原ひとみさんのような、結婚生活の息苦しさや婚外の恋愛の甘美やままならなさを描く女性作家の層は厚い。でも、男性作家の書くもので色っぽい愛人が登場する作品は少なくなっている印象があります。