テレビは嘘をついたら絶対に駄目――黒柳徹子が芸能生活70年で気づいたこと #昭和98年
1971年、当時38歳だった黒柳は芸能活動を休止し、ニューヨークで1年間の留学生活を送った。 「それまで18年ぐらい休まず働いていたんだけど、この辺で少し休みが必要だと感じたんです。その少し前、『結婚してもいいかな』と思ったこともあったんだけど、それよりも演技の勉強をしてみたくなって。周囲の人が電車のように行ったり来たりを繰り返すなか、私は引き込み線に入るようにそっと消えたんです」 初めての本格的な一人暮らしを体験しながら、昼は芝居とモダンダンスの授業に出て、夜は和装してパーティーに出掛けた。そこで敬愛するチャールズ・チャップリンと話す機会にも恵まれた。70年の芸能生活において、今のところ、ただ一度の長期休養だった。 「あれ以来、休みたいと思ったことは一度もないんです。だから、『たまには1年ぐらい休んでもいいんじゃない?』と人に勧めることはありますね(笑)」
“男社会”だったニュース番組で、自分の意見をどう伝えたか
1972年、帰国した黒柳を待っていたのは『13時ショー』(NET/現・テレビ朝日)というニュースショーのレギュラー司会者の仕事だった。テレビ局側のオファーの意図は、「留学帰りの感性を生かしてほしい」。当時としては異例の抜擢だった。 「今でこそ女性の司会者も増えましたけど、当時はだいたい、司会は男性の方で、女の人は隣でにこにこ笑ったり相槌を打ったりするぐらいの役割しか与えられなかった。まあ今だってわりとそうなんで、日本って変だなと思うんですけど。当時、主な視聴者層は主婦のみなさんでしたから、出演する女性の衣装も、白いブラウスに紺のタイトスカートという感じでした。私みたいに主婦の経験もなくぷらんぷらんと生きている人間が何か言っても、まだ『うるさい』とか反感を買ってしまうような時代でね」
けんかこそしないが、自分の意見は正直に伝えてきた。彼女は『13時ショー』の出演にあたって二つの条件を出した。 「一つは、私が嫌だと思う内容の時はきちんとそう言わせていただきたい、ということ。それから、自分の好きなものを着て出たい、ということでした。『いいですよ。これからは時代も変わるでしょうから』と言っていただきました」 こうしてスタートした番組だったが、時にはこんなこともあった。 「ディレクターは全員男性で、打ち合わせというと、男性10人くらいに女性は私一人。ある時、番組の途中に唐突な宣伝が組み込まれていたことがあって。私はそれがどうして入るのか理解できなかったから『これ、変だと思いますけど』と言った。そうしたら、担当のディレクターの方に『馬鹿! 俺が言った通りに黙ってやればいいんだよ!』と言われたんです。私、その方の上司のところまで行って、『あの人、私を馬鹿って言ったんですけど、馬鹿な人にニュースショーの司会なんてやらせといていいんですか?』って言ってやったの。結局、あとで謝られました。テレビ番組というものは、どさくさ紛れでやっていいものじゃありません」