「生まれながらに光るものを持っていて、それを輝かせることが出来た」ヤマハ先輩ライダー・難波恭司さん
ものすごく頑固で、負けず嫌い
スーパーバイク世界選手権(WSBK)の時に、フロントタイヤのテストをしたことがあったんですが、違うコンパウンドのタイヤを3種類、用意して乗ってもらったんです。でも、どれを履いてもリヤタイヤのコメントしかない。フロントタイヤのテストだっていうのにです。「タイムが出ているのが良いタイヤ」ということ。確かにそうなんですが、ノリックの場合はラップタイムにしか興味がない。それだけ純粋ということですが、より良いセッティングを出したい、こちらとしては悩むわけです。 魅力的なライディングではあるけど、もう少し走り方を変えてみようとアドバスしましたが、聞かないんです。ものすごく頑固でした。誰の意見も聞かなかったんじゃないかな。例外はのりパパ(阿部光雄)だけだと思います。自分のスタイルを貫き、信じる者は自分、他の人は入り込む余地がなかった。アクセルを開ければ開けるほど曲がらない部分もあったはずなのに、それでも走る事が出来たのは天性の才能だと思います。速く走りたい気持ちが、そうさせたのでしょうね。当時のバイクやタイヤのパフォーマンスからしたらNGでしたが、それが出来てしまったのは彼に飛びぬけたものがあったからだと思います。 一緒にモトクロスのトレーニングをしたりもしました。他のライダーだったら、コンディションによってタイムが出にくいこともあるのに、ノリックはどんなコンディションでも同じでしたね。リスクが高くても気が付いてないの?って、思うことが多かった。彼はどんな条件でもへっちゃらで、他の人のライディングや状況には興味がないんです。トレーニングでも、己の道を突き進むスタイルは変らなかった。 ものすごく負けず嫌いで、藤原義彦、吉川和多留といったヤマハを代表するライダーたちにも、もちろん、僕にも。ある日フラットダートのトレーニングでレースをした時、何とかして勝ちたくて、イン側にある側溝より更にイン側を通って無理やり抜いていったりね。練習トレーニングだから、そんなにムキにならなくてもと思うくらいの貪欲さがあった。 そして、ものすごく努力していましたね。バイクに乗れない日は、ジョギングをかかさなかった。「世界チャンピオンになる」という純粋な思いが強くあって努力を重ねていました。その思いが彼を支えていたのだと思います。 自分は2002年で開発テストを終えて、モータースポーツのスクールの仕事を始めていました。2004年にヤマハの創成期を支えた方が亡くなり、葬儀に出かけた時に当時ヤマハのGPチーム監督の桜田修司さんに会って「阿部典史をワールドスーパーバイク(WSBK)に送り込もうとしている。だが、チーフメカニックがいない」と聞いて、心配でノリックに電話を入れたら「難波さんにお願いしようと思っていた」と言われた。もう12月というタイミングで、大変なことは分かっていたけど「ノリックのためなら」と決断しました。自分の仕事の調整をして、年明けから準備に取り掛かって、開幕戦に間に合わせるために現場に向かいました。 WSBKでは、ノリックもすべてが揃う環境ではなく苦労がありました。彼の乗り方とタイヤの相性が良くなく、思うようなライディングが出来なった。それでも、トップ争いをして、勝つチャンスもありました。転倒で優勝は出来ませんでしたが、そこまでの力を発揮するまでにはなっていたんです。 フランスのチームだったので、英語を話すスタッフが少なくスムーズにコミュニケーションがとれなくて、大変なことの方が多かったけど、自分にとっては新しい世界を見ることが出来た時間でもあり、ノリックが自分を頼ってくれたことも嬉しいことでした。ノリックからパワーをもらって、勝つことに邁進出来ました。