経済日本を滅ぼそうとしているのは経済エリート? 今の日本に必要な「時代精神」について考える
建築モダニズムにおける機能主義
今は、かつて社会主義であった国も、まだ社会主義を唱えている国も、大都市にはガラス張りの超高層建築が建ち並んで、ビジネスセンターとしての役割を果たしている。それは先進資本主義国の大都市のそれと同じ光景のように見える。 しかし建築の専門家から見るとそこには少し違いがある。 前に中国と日本の建築の違いについて論じたことと重なるが、社会主義を経験し、現在権威主義と呼ばれる国の建築には、モダニズム精神が欠如しているのだ。 建築のモダニズム精神とは何か。たとえばアール・ヌーボーやウィリアム・モリスのそれを初期モダニズムとし、バウハウスやル・コルビュジエのそれを盛期モダニズムとするなら、初期のモダニズム精神とは、過去の様式を離れた「自由な造形」であり、盛期のモダニズム精神とは、様式も装飾も否定した機能にもとづく造形であり「機能主義」(ファンクショナリズム)と呼ばれる。 戦前の日本の近代建築家たちは「自由」の建築を追求し、戦後の日本の建築家たちは「機能」の建築を追求した。それはそのときの「時代精神」に合致していたのである。ヴァルター・グロピウスやル・コルビュジエはその機能主義のパイオニアであり、彼らの作品はその時代精神ゆえに輝いていた。 かくいう僕も、学んだ大学でも勤務先の設計事務所でも、そのモダニズム精神を叩き込まれ、その後、教鞭をとった大学でも、それを学生たちに叩き込んできた。しかし今、建築のモダニズム精神は輝きを失っている。権威主義の国の建築が社会主義のモラルを捨てて経済効率主義化しているように、実は西側先進国の建築もモダニズムのモラルを捨てて経済効率主義化しているのだ。それが両者の違いを見えにくくしている原因である。
「勤勉と挑戦の資本主義」から「欲望と投機の資本主義」へ
また建築のモダニズム精神は、マックス・ヴェーバーが『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』において論じた、勤勉、禁欲、革新、挑戦という精神とも合致していた。モダニズムとプロテスタンティズムと資本主義が一体となって、西欧と北米に広がり、その精神が近代日本の進歩的な層にも普及したのである。 ベルリンの壁が崩壊し、冷戦構造が終焉を迎えたあとは、かつて社会主義だった国々が一挙に資本主義化し、世界のマーケットに混乱が現れているのだが、この変化の本質はむしろ、資本主義が「勤勉と挑戦の資本主義」から「欲望と投機の資本主義」に変質したことにあるのではないか。 アメリカの新自由主義的な思想の影響だろうか、今は日本の政府もまた経済専門家も、個人消費の欲望をあおり、投機に近い投資をあおっている。「投資の本質はギャンブル」といいきった経済学者は変わり者のように評されるが、僕はこの思い切った発言に好感をもっている。挑戦と投機とはまったく異なる。モラルを失っているのは国民ではなく、政府と専門家の方ではないか。僕のまわりには、ものづくり全盛期を支えた技術屋が多い。経済にはうといが、数字には強いから、みな天文学的な財政赤字を心配している。戦前の「軍国日本」を滅ぼしたのは軍事エリートであったが、戦後の「経済日本」を滅ぼそうとしているのは経済エリート(官僚、学者、エコノミスト)ではないか。