「赤字だから仕方がない」 そんな“ローカル線廃止論者”に、私が微塵も同意できないワケ
効率追求の代償、自由の喪失
物事を数字や効率だけで判断する思考は、近代社会が抱える病理として、以前から指摘されている。 ウェーバーは、近代社会の本質的な特徴として「合理化」の進展を挙げ、社会のあらゆる分野で ・計算可能性 ・予測可能性 が重視されるようになったと分析した。その結果、企業は収益性を、行政は効率性を追求し、数値化しにくい価値が軽視される傾向が生まれた。ウェーバーはこれを「鉄の檻」と呼び、合理性を最優先することで社会が抱えるリスクを警告している。 合理化が行き過ぎると、次のような問題が生じる。 ●個人の自由の制約 過度な合理化は、個人の自己決定や柔軟な行動の自由を奪い、定められたルールに従うことを強制する。社会全体が「鉄の檻」のように硬直化すると、人は単なる「歯車」に過ぎなくなり、創造性や自由な発想が制限される。 ●非人間的な社会 効率性の追求が行き過ぎると、社会や組織は冷徹で非人間的なものへと変わる。人々は機械的な効率性だけで扱われ、感情や存在が軽視される。 ●社会的・倫理的価値の軽視 合理化が進むほど、社会的な公平性や倫理的な判断が犠牲になる。効率が最優先されることで、人間らしさや社会的なつながりが後回しにされる危険がある。 ●創造性と革新の抑制 手続きが極度に合理化されると、新しいアイデアや革新的な取り組みが生まれにくくなる。その結果、組織や社会全体が停滞するリスクが高まる。 ウェーバーが指摘した「鉄の檻」は、近代社会が効率性や合理化を追求しすぎることで、人々の自由を奪い、冷たく非人間的な社会を生み出してしまう可能性を警告している。この考え方は、現代社会においても重要な示唆を与えているといえるだろう。
公共交通廃止の真の影響
この問題は、私たちの日常でも顕著だ。例えば、現代の教育評価のあり方がその一例といえる。生徒が持つ多様な能力――運動や芸術的な才能、共感力といった数値化が難しい価値――が、テストの点数というひとつの基準に還元されてしまう傾向がある。これは合理化による「非人格化」の典型だ。 一方で、教育現場では依然として教師と生徒の個人的な関係が重要視されている。「非人格化」と「人格化」が同時に進行している現状が、教育の中でも見て取れる。 公共交通の問題も同様の視点で考えられる。乗客数や収支などの数値は確かに重要だが、それだけでは地域コミュニティの維持、高齢者の医療アクセス、子どもたちの教育機会、地域文化の継承といった、本来数値化できない価値を見失う危険性がある。これこそ、私たちが「鉄の檻」に囚われている現実を象徴している。 「鉄道が無くなる = 街が寂れる」 という単純な図式については、否定的な研究結果もある。しかし本質的な問題は、効率性という枠組みに囚われて公共交通の多面的な価値を見失っている点だ。 公共交通の廃止は単に移動手段を失うだけでなく、地域社会そのものの衰退につながる。人々の暮らし、文化、つながりといった数値では表せない価値が徐々に消えていく。この問題を 「赤字だから仕方がない」 という効率性の論理だけで片付けるべきではない。