ああ、もう軍人にならなくていいんだ--山田洋次91歳、創造の原点と戦争体験 #戦争の記憶
10代の少年が「死」に慣れていく
やがて、大連に厳しい冬がやってくる。 満洲に残された日本人たちは、いかに生き延びるか必死だった。飢えと、とてつもない寒さと闘う毎日。かつて潤沢に使うことができた石炭はもはや贅沢品だ。家具を壊して燃やし、それが尽きると燃料になる木切れを探してさまよった。 「馬や牛に与えてきたコーリャン、それすら買えない人は、飢えて死んでいった。1月の寒い日、同級生の阿部君の家に行ったときのことも、忘れられない。窓から中をのぞいたら、昼間なのに、家族5、6人がみんな布団をかぶって寝ている。窓を叩いて、『おーい、阿部君!』と声をかけたけど、誰も起き上がれない。間もなく飢え死にだよ。家に帰って、おやじに話したけど、黙って下を向いていた。そんなことが続くと、人が死んでいくことについて、どんどん鈍感になっていくんだよ。道端で死んでいる人がいても、あまり驚かなくなった」 10代の少年が「死」に慣れていく。この異常さをもたらすのが、戦争だ。 「戦争そのものが悪なのだということは、引き揚げてから学んでいったことです。敗戦までは、敵の兵隊を何人殺した、軍艦を沈めた、万歳!なんてニュースに喜んでいた。何千人、何万人という人たちが死んでいくことに対してだよ、これが、いかに恐ろしいことか。生命を奪うことが戦争なのだという認識、戦争がどんなに間違っているかということを学んだのが、戦後の教育なんです」
ウクライナの光景に、引き揚げ前夜を思い出す
敗戦からおよそ半年後、校庭に集まる生徒たちに、閉校の旨が伝えられた。 「もうみんな生活難で学校なんか行ける状態じゃないんだ。先生が言った、『本日をもって、この大連第一中学校は閉鎖いたします』。そしてガリ版でプリントした、手書きの紙を一枚ずつ配った。『山田洋次が何年何月本校において第二学年の学業を修了したことを証明する』。君たちはいつか日本に引き揚げる日が来るだろう。日本の学校にこれを持って行けば、修了証明書になるから、そこで学業を続けなさいと。『無事にそういう日が来ることを祈っています、さようなら』。友達とはノートにお互いの日本の住所を書き合ったりした。実家や親戚の家があればね。でも、『俺はどこに行けるかわからないよ』って、そういう生徒もたくさんいたね」 引き揚げ船が日本から来るようになったのは、敗戦から1年以上たった後だった。 現地日本人たちは自治会を作り、引き揚げのスケジュールを相談しながら決めていったという。 「まず生活困窮者から引き上げを始めると。そこから何町何丁目、というところで順番を決めて。日程が大体決まったら、その日までに持ち物、つまり全財産をまとめるように言われた。船に乗るまでの2、3日、いったん収容所に入るので、そのときの食事も用意しておかなきゃならない。僕らは最終的に3月25日の朝9時集合と決まったので、それを目標に、住んでいた家を片付け始めた。大事なのは、『何を持って帰れるのか』ということ。携行できるのはリュックサックひとつなんだから、これはいらないとか、これは持って行きたいけどもう限界とか、いろいろと諦めなきゃならなかった。服もね、なるべく着ていきたい。女性は、持っている人はオーバーを2枚重ねて着たりしていたね」 ウクライナで家を焼かれた家族や、シリアから逃げ出す難民たち。そんな光景をニュースで目にするたびに、山田は引き揚げ前夜のことを思い出すという。 「戦後80年近く経つ今、語る人も減って、日本の子どもたちは僕らが経験した戦争のイメージをすることが難しくなっている。だけど、今世界中で苦しんでいる人たちをニュースで見ることがあるなら、想像してみるといい。明日にも住み慣れたわが家を捨てなければならないとしたら。自分で持てるものだけを選ぶ、明日はどこで眠れるか、何が食べられるかもわからない、そんな状況をね」