もうすぐ消えてなくなる戦場体験をなんとか後世に残したい――「語らずして死ねるか!」約1800人の証言 #戦争の記憶
猛烈な暑さの中、東京・浅草の会場に84~98歳の戦争体験者17人が集まった。「戦場体験放映保存の会」が続けてきた恒例の「戦場体験者と出会えるお話し会」。戦争体験を膝詰めで聞けるとあって、3日間の期間中、各ブースでは入り切れない人も続出した。「語らずに死ねるか!」を合言葉にしたこの催しは、体験者の高齢化が進んだことから今年が最後になるという。会場では、戦地での凄惨な体験や日本本土での無残な空襲体験などが語られたが、終了後には「戦争体験者に残された時間はあとわずか。今後、体験をどう伝えていくのか」という重い課題が残された。(文:フロントラインプレス/写真:後藤勝/Yahoo!ニュース オリジナル 特集編集部)
「この世のものとは思えない地獄でした」
「フィリピンのミンダナオ島で、私はこの世のものとは思えない悲惨な出来事に遭遇しました。敗戦の年、20歳でした。地獄ですよ。地獄なんて絵空事と思っているかもしれませんが、いいですか、この世には時に本当の地獄が出現するんです。『あの経験を語らずに死ねるか!』という思いで、私は今日まで生きてきました。でも、まだ死ねない。戦争の真実をもっと知らせなきゃならん。それが残された者の責任です」 鹿児島県姶良市から来た98歳の坂上多計二(さかうえ・たけじ)さんは、ブースをいっぱいに埋めた市民を前にそう声を絞り出した。
日本領だった台湾の生まれ。1943年からミンダナオ島ダバオ市郊外にあった日本軍の直営農場で働き、その後は兵士の立場で営農指導に当たっていた。45年5月、米軍がダバオ近郊に上陸。猛攻撃の中、坂上さんは必死で逃げ回り、ジャングルに身を隠した。 「たくさん人が死にました。爆撃で足がちぎれたり、腸が飛び出したり。けがをした仲間をかつぎ、日本海軍の野戦病院に運び、必死で助けを求めたことがあります。その時の軍医の言葉、私は忘れません。『どうせ、もうじき死ぬ。連れて帰って始末せよ』。その声、けが人に聞こえてるんですよ。あまりにむごい」