ああ、もう軍人にならなくていいんだ--山田洋次91歳、創造の原点と戦争体験 #戦争の記憶
「女中さん」のいる何不自由ない暮らしが一変
ウクライナとロシアの戦争は2年目に突入し、世界中をキナ臭い雲が取り巻いている。 今年も日本は終戦記念日を迎えた。 南満州鉄道の技師だった父に随行し、家族で満洲へ渡ったのは、2歳の頃。山田は幼少期のほとんどを満洲で過ごした。都市計画がなされた街での、「女中さん」「ボーイさん」がいる何不自由ない暮らし。しかし敗戦の色が濃くなると、現地日本人の生活は日に日に困窮していく。 1945年、敗戦の夏。大連で中学二年生になっていた山田は、「学徒勤労動員」として“戦車壕”を掘る作業に明け暮れていた。当時、日本国内の都市はいくつも焼け野原になっていたが、大連には空襲がなかった上に、頻繁には情報が入ってこない。どこかの都市に大きな爆弾が落ちたらしい、という噂を聞いたくらいで、いつも変わらない労働の毎日を過ごしていた。 8月15日、校庭に集められ、玉音放送を聞いた。ラジオの性能は悪く、言葉も難しいので、何のことかさっぱりわからない。教師も何も説明しない。たぶん激励のお言葉だろうと考えていると、昼食の時間、クラスメイトの一人が、噂に聞いたという日本の敗戦を皆に伝えた。
一生忘れられない、8月15日の光景
「驚いた。ええっ、負けるわけがないのに、と。これが戦争の怖いところ。日本は負けないという宣伝が行き届いていたんだ。何の根拠もないんだよ。最後はカミカゼが吹く、元寇のように、神様がついているからと、大部分の日本人が大真面目にそう思っていた。その日の作業は中止になったので、先生に確かめにいくこともなく、狐につままれたような気持ちで、学校からの坂道を友だちとしゃべりながら自宅に帰ったんだな」 そのとき見た風景を、山田は一生涯忘れることができないという。 坂下に広がる軒が低い貧しい中国人街の屋根に、無数の青天白日旗、つまり敵国の旗がはためいていた。 「ゾッとしたね。旗を揚げているということは、前から準備をしていたんだな、僕らは何も知らなかったけど、中国の人たちは日本の敗戦を、もう何日も前から知っていたわけだ。復讐されるんじゃないか。急に怖くなって、みんな走るようにして自分の家に帰った。すぐに銀行も郵便局も全部閉鎖になって、日本人の財産はすべて没収。両親も、怖かったんじゃないかな。これからどうなってしまうのかって」 一方で、不思議と安堵感もあった。 「僕はあと2年たったら、海軍の兵学校に進学する予定だった。海軍の軍人といえば、当時の憧れだよ。しかし戦争へ行けば、結局死ぬんだな、と思うわけ。22、23歳で、僕は死んじゃうんだなと思ったら、その歳が近づくにつれて怖くなっていた。その恐怖感からは解放されたんだよね。『ああ、もう軍人にならなくていいんだ』。本当なら、日本は負けちゃいけない、敵をやっつけなきゃいけない。それができなかった悔しさで、オイオイ声を上げて泣かなきゃいけないはずなのにそれほど悲しくないんだよ。むしろ、命が助かってホッとしている。自分でも不思議だったね」