夢の海外移民、カリブ海の「楽園」は地獄だった 日本政府と法廷闘争、ドミニカ共和国の日系「棄民」の65年(前編)
カリブ海の島国ドミニカ共和国をご存じだろうか。1950年代に日本政府の国策でこの地に移住しながら約束通り土地が譲渡されず「戦後移民史上最悪のケース」とされた苦難を乗り越えてきた日本人たちがいる。差別、内乱、日本政府の失策と法廷闘争―。苦しんできた日本人を対象に、ドミニカ共和国政府は移住開始から65周年を機に45家族を対象に約2千万円の補償を決めた。中南米の日本人移民に対する受け入れ国政府による補償金支給は初めてだった。歴史的な円安に見舞われ、再び海外で稼ぐことを目指す日本人が増える中、葬らせてはならない教訓とは何か。試練の道程を証言でたどった。(共同通信・前サンパウロ支局長=中川千歳) 【写真】香港女性が日本のAVに進出、広がる波紋 閉塞感強まる社会で、将来を悲観し海外移住を目指す人も後を絶たず… 「勇気をもらった」激励の声も
▽甘い事前調査の国策移住、独裁者の国へ 「カリブの楽園」。日本海外協会連合会(現・国際協力機構〈JICA〉)がドミニカ共和国への農業移民を募集した際のキャッチフレーズとなった言葉だ。 戦後の海外移住は、外地からの引き揚げなどで過剰となった人口問題の解決策として、国策で進められた。 多くの移住者が、日本とは直接戦火を交えなかったブラジルやパラグアイ、アルゼンチンなどの南米の国々に渡った。 カリブ海に浮かぶ島国ドミニカ共和国は、当時の独裁者ラファエル・トルヒジョ元帥(1891~1961年)が日本人の受け入れに前向きだった。1954年、上塚司衆院議員がブラジルの農場視察の帰りにドミニカ共和国に立ち寄り、トルヒジョ元帥と会談。この時に日本人農業移民を送ることが決まったという。 しかし移住計画は多くの問題をはらんでいた。入植地が耕作に適した土地かどうかという基本的な問題を含め、現地の法律などに関しても十分な調査がされていなかった。
移住の時期が迫ったころ、ドミニカ共和国は日本政府が求めた灌漑設備の整備が不可能だとして中止を要望した。だが日本政府は移住者を送り出した。 また南米のほかの国々と結んでいた、移住者の法的身分の根拠となる移住協定も、ドミニカ共和国とは結んでいなかった。移住者に「譲渡する」と募集要項に書かれた土地は、ドミニカの法では所有が不可能で、耕作権のみが与えられることになっていた。 そうとは知らず、募集要項に書かれた「開墾したる土地300タレア(18ヘクタール)無償譲渡する」という言葉に引かれ、1956年7月、28家族185人が第1陣として入植、その後も1959年までに249家族1319人が8か所の入植地に入った。 ▽荒れた大地、銃持つ役人が監視 だが、そこに“楽園”はなく「実際は地獄だった」とドミニカ日系人協会会長の嶽釜徹(たけがま・とおる)さん(86)は首都サントドミンゴの事務所で、来し方を振り返った。