夢の海外移民、カリブ海の「楽園」は地獄だった 日本政府と法廷闘争、ドミニカ共和国の日系「棄民」の65年(前編)
1987年、父は亡くなる数日前に嶽釜さんを呼び寄せ、土地問題についてこう言い残した。 「自分らの世代で解決するのが本当だが、できなかった。だから後を頼む」。嶽釜さんはこの遺言を受け、問題をじっくり調べた。そして「日本の国策で来ているわけだから、日本の法に基づいて解決策を見つけざるを得ない。残念だけど、祖国を訴えざるを得ないという結論に達した」 ▽祖国を訴える悲しみ 嶽釜さんは原告団結成のため、移住者の賛同を集めて回った。高齢者は「祖国を訴えるなんて」「これしか解決法はないの」と泣きながら委任状に署名した。 訴訟の直前、現地日本大使館は首都サントドミンゴ郊外「ラ・ルイサ」の土地を移住者に配分しようと共和国政府と共に動いた。頻繁に水害に見舞われる劣悪な土地だった。形式上でも土地を配分することで訴訟を封じるか、または訴訟上有利になるよう図ったのか。結局訴訟に加わらなかった27家族がその土地を受け取った。
嶽釜さんは「自分の国を信用できないちゅう、こんなに苦しい、悲しいことはなかった」と述懐した。 2000年以降、第3次訴訟まで170人余りが、募集条件違反だとして日本政府への損害賠償を求め東京地裁に提訴した。2006年の一審判決は国の賠償責任を認めたが、除斥期間(法律上の権利を行使しないままでいると、その権利が消滅するまでの期間)を過ぎたとして請求は棄却した。 当時の小泉純一郎首相が「当時の政府の対応により移住者の方々に多大な労苦をかけたことを、政府として率直に反省し、おわびする」とした謝罪談話と1人最高200万円の特別一時金の支給が示された。 原告団の間では評価が割れた。団長の木村庫人(きむら・くらと)さん(故人)の「完全には納得できないが、(首相のおわびで)了解するより解決の方法はない」という言葉が多くの人の心情を代弁した。原告側は控訴を取り下げた。譲渡されるはずだった土地の問題は未解決のまま残った。
× × × ドミニカ共和国 カリブ海のイスパニョーラ島の東3分の2を占め、西はハイチと接する。人口約1133万人で公用語はスペイン語。1492年にコロンブスが到達、スペインや米国の占領を経て独立した。1930年、トルヒジョ将軍がクーデター後に大統領就任、1961年まで独裁体制を敷いた。観光や海外送金が主な外貨獲得源。