夢の海外移民、カリブ海の「楽園」は地獄だった 日本政府と法廷闘争、ドミニカ共和国の日系「棄民」の65年(前編)
嶽釜さんは第1陣として1956年、鹿児島県知覧町(現南九州市)から北西部ダハボンに家族7人で移住した。当時18歳。医師を志していたが農業技師の父ら家族と共に異国に移ることを選んだ。移住先でも勉強を続けられると聞いたからだ。 ダハボンは、隣国ハイチと国境を接する町だ。割り当てられたのは300タレアに到底届かない80タレアだった。失望は大きかった。入植地は9段の有刺鉄線に囲まれ、管理人の許可なしには出入りができなかった。「囚人と同じだった」と嶽釜さんは振り返る。 移住者はダハボンのほか、ハラバコア、アルタグラシア、アグアネグラ、コンスタンサ、ドゥベルヘ、ネイバ、マンサニジョと8カ所に振り分けられた。 移住者の記録には次のようにある。 「石ころだらけの土地、塩分で真っ白の農地…。急傾斜でとても作物が植えられる状態でなかったり、用水路が整備されていなかったり…。もし用水路があっても極端に水量が少なく、移住者同士で水争いをするありさまだった」
「コロニア(移住地)ごとの事情は異なるが、とても農業を営むような土地の状態でない点では共通していた。さらに驚くことに、畑は鉄条網で囲まれ、銃を持った役人が馬の上から農作業をする移住者を監視、『草を刈れ』と命令する。『良質な大農地を無償で配分する』という募集要項を信じ、『楽園での自作農』を夢見て移住した日本人には理解しがたい光景であった」 それでも日本人移住者は割り当てられた土地で懸命に農業に従事した。 嶽釜さんは農作業と勉強を両立させようとしたが、ダハボンには日本政府の言ったような大学はなかった。「おやじは日本政府にだまされたかもしれんけど、おれはおやじにだまされた」と父と随分けんかをした。 嶽釜さんは後に日本政府を相手取った訴訟の原告団事務局長として、6年にもわたる法廷闘争を戦い抜くなど、波乱の多い移住人生を歩んでいるが、一番つらかったことを尋ねると「勉強ができなかった」ことだとぽつりと答えた。 ▽「ろくに食事もできない」