夢の海外移民、カリブ海の「楽園」は地獄だった 日本政府と法廷闘争、ドミニカ共和国の日系「棄民」の65年(前編)
ダハボンに住む向井猛(むかい・たかし)さん(77)=山口県岩国市出身=と早苗(さなえ)さん(75)のきょうだいも、十分な教育が受けられなかった。猛さんらは1958年6月、10歳の時に南西部アグアネグラに両親と祖母、弟2人と移住した。 向井家は200タレアの土地を譲渡されると聞いていた。だが実態は「(日本政府の)募集要項とは雲泥の差で、来た途端にそんな夢はぱーっとなくなっちゃった」と語る。 向井家に配分された土地はなく、父は空いている土地を探し回ったり、ほかの移住者から分けてもらったりしたという。それでも土地は100タレアにも満たず、コーヒーや野菜を栽培したが、水の少ない土地で苦労した。 早苗さんは「ろくに食事できない時代もありました。白いご飯を食べることはほとんどなかったし、おかゆとか青いバナナをゆでて食べたりした」と話した。 アグアネグラには電気もなかった。猛さんの父は、日本の教科書を中学分までそろえて持って来ていたが、勉強するどころではなかった。猛さんもつらかった経験として「教育面。それ全然(だめだった)」と話した。早苗さんも少しだけ通った学校について「日本の寺子屋を想像していただければいい。読み書きと計算だけを教えてそれ以上は教えない」。そして「病院もない。もしも緊急を要する手術が必要だってことになったら死ぬことになる」と振り返った。
▽死ねば帰れる 移住地の多くは劣悪な環境で、生活苦や、死ねば家族を日本に帰してもらえるとの動機から10人超の自殺者も出たという。「まさに『棄民』だった」と嶽釜さんら多くの移住者は言を同じくする。 1961年にトルヒジョ元帥が暗殺され状況はひどくなった。独裁政権下で土地を接収された国民が、日本人移住者が耕していた土地の代金を請求するなどしてきたためだ。 移住者の抗議の声を受け、日本政府はこの年、希望者に対し、集団帰国やほかの南米の国への再移住の措置をとる。 だが、嶽釜さんら50家族余りは残った。なぜ帰国しなかったのか。嶽釜さんは、「財産整理して来とる。今さら、帰るところなんかなかった」 日本政府はこの後も、移住者が求め続けた、募集要項で示した条件と実際にドミニカ共和国での実態との差異について説明することはなかった。 嶽釜さんの父ら家長らは日本政府に、約束通りの土地の要求を続けたが、解決の道筋は示してもらえぬままだった。