富士山と宗教(6) 江戸富士講から宗教法人へ 富士塚復興と神道扶桑教
神道扶桑教は東京都世田谷区に「本部」(大教庁)がある宗教法人だ。境内には本殿や龍神宮、そして富士塚がある。神道扶桑教の歴史は、江戸時代、庶民の間でブームとなった富士講のその後の歴史、明治時代から平成の今日に至るまでの富士山信仰の歴史の主要な一面である。
「70年経ってやっと富士塚を復興させた」
京王線明大前駅。駅前の賑やかな商店街を抜けると閑静な住宅地となり、その一角に神道扶桑教の会館建物が建っていた。壁面にずらりと提灯が下がっていて、通り沿いの外観からは演芸場あるいは高級割烹のような印象を受ける。しかし、壁面に掲げられた「松原のお富士さん」「江戸冨士塚」などの文字から富士山信仰の建物だと知れる。 住宅地の道から回り込むように敷地の内側に歩を進めると、冨士山と記された神額がかかった鳥居があり、その奥に太祠(たいし)と呼ばれている本殿が建っていた。本殿の隣りに、復興した富士塚「松原のお富士さん」があった。 「富士塚も戦災で火をかぶって。当時の消防から危険だからとりほどけといわれて、とりほどいていたんです。御殿が全部焼けたものだから、先に礼拝所を設けることに精いっぱいで、富士塚の復興までいかなかった。70年経ってやっと富士塚を復興させたところまでどうにかきたんです」と神道扶桑教の宍野史生(ししのふみお)・第6世管長は話す。 着物に羽織姿で取材に応じた宍野管長。扇子を手に話すその姿は、宗教法人のトップというよりも物腰柔らかな噺家のような雰囲気だ。
「450年前、元亀3年6月3日に角行様が初めてお頂上に立たれた。それまで下から拝んでいた、遥拝をしていた富士山に登ってそこで拝む、ノリをあげることになるのが、角行様からになるのです。角行様は道をつくりながら、後からついてこられるようにロード(道)とソウル(魂)をつくられた。文字通り道をつくった。それに14年かかって元亀3年6月3日これは旧暦でございます。今で言えば7月16日とか、17日になるのではないかと思うのですがね。6月3日に初めてお頂上に立たれた。私ども富士講の系列を継ぐ者は、この6月3日をお山の開山日とさせていただいています」 「(宍野史生管長は)神道扶桑教としては6代目。冨士道としては12代目ということになっています、初代の角行様から。途中で食行系に入っていますから。村上光清さんの系列と食行さんの系列と、厳密に言うと2つに分かれます。江戸富士講では、大名光清に、乞食身禄と言われるくらい対照的です」