富士山と宗教(6) 江戸富士講から宗教法人へ 富士塚復興と神道扶桑教
「伝統的な姿を壊さないで後世に伝えていきたい」
「松原のお富士さん」は、平成の富士塚として復興し今年4月に竣工開山祭が盛大にとりおこなわれた。ちなみに造営委員長を務めたのはアルピニストの野口健氏だ。1945年の焼失より70年余の歳月を経て造営された富士塚。「富士塚を復興させたところまでどうにかきた」との宍野管長の言葉には、戦後の扶桑教そして富士講の歩みへの感慨を感じさせる。 「人というのは2000年経っても本質は変わらない。祈りの内容も変わらないのではないかと思う。愛しい人の安全や子供の成長、親の健康、夫婦の絆、2000年たっても変わっていない。しかし、激動の中でまわりの環境はすごく変わっている。私自身は時代の一つの継ぎ目、ジョイントの役目なんですね。時代、時代にあったやり方をもちながらも伝統と祈りの本質をちゃんと伝えていくということを心がけたい」と話す宍野管長。 「いろいろな方が富士山の信仰を守ってこられた。それは古風な形で今もつながっています。お焚き上げや拝みなど、果たして現代に合うのだろうかという形で残っていますが、その伝統的な姿をできるだけ壊さないようにして後世に伝えていくことこそが、時代、時代の安寧をもたらすものになるのではないか」とも話す。 江戸庶民の大衆信仰としてさかえた富士講。中でも身禄派の流れをくむ江戸富士講が明治期に国家公認の教派神道の一派である神道扶桑教へとどのようにして「変貌」したのか? 江戸から明治にいたる日本史の激動は、富士山信仰の世界にも大きな変化をもたらしたのであった。