富士山と宗教(6) 江戸富士講から宗教法人へ 富士塚復興と神道扶桑教
昭和27年に包括宗教法人に
角行(かくぎょう)は、戦国時代に現れ、乱世を救うため富士山麓で荒行を重ねて法力を得、祈祷の力により諸病平癒などで庶民を救済した、とされる。また、元亀3(1572)年に初めて富士登山を北口(吉田口)から行ったという。江戸時代に「ツキタオシ」という奇病が流行した際、角行が護符を授け祈祷の力によって多くの患者の命を救ったことから江戸の人々に富士信仰の心が広まったといわれている(北口本宮冨士浅間神社HPより)。 角行の教えは弟子に受け継がれて江戸時代、富士講人気へとつながるわけだが、その役割を果たしたのが富士講中興の祖と言われる、村上光清(むらかみ・こうせい)と食行身禄(じきぎょう・みろく)という2人の弟子だ。それぞれ光清派、身禄派などと呼ばれている。光清は北口本宮冨士浅間神社の改修費用を寄付するなど資金豊富であったことから大名光清と呼ばれ、その信仰は角行の教えを忠実に受け継ぐものであった。 一方、食行身禄は角行の教えを発展させ、富士山で31日間の断食修行をして63歳で富士山中にて亡くなった。その際の教えが江戸庶民の共感を呼び、爆発的な富士講ブームにつながったとされる。
身禄派の流れをくむ神道扶桑教は、明治15(1882)年に明治天皇の勅裁により国家公認の教派神道の一派となった宗教団体。戦後、昭和27(1952)年に包括宗教法人となり今日に至っている。富士吉田市上吉田にある元祠(げんし)を立教の地とし、富士山八合目には断食修行により「入定」した食行身禄の霊跡、冨士山天拝宮を擁している。 当初、東京芝区神明町(現在の東京都港区浜松町)の旗本、木村公爵邸の6000坪を買い上げ、そこに華頂宮旧邸を移築して本殿風に改修し、2000本の桜の木を植えて富士塚をつくり「教会」としたが、その後、東京都世田谷区の現在の住所に移設した。その際も華頂宮旧邸の御殿や富士塚などをそのまま移設、富士塚は高さが約10メートルあり、地名から「松原のお富士さん」と呼ばれて親しまれてきた。しかし、昭和20(1945)年5月の東京大空襲により、すべて焼失。食行身禄が富士山中で即身入定した時の装束もあったが、焼けてしまったという。