《ブラジル》記者コラム=日本人初アマゾン川遡行した冒険家=渋沢栄一やアインシュタインと親交も=小林美登利の桁外れな生き方
枕木1本に死者一人のマデイラ・マモレ鉄道
1928年7月21日にマナウス行きの客船に乗って出発。マナウスから船で七昼夜かけて船の終点となるポルト・ベーリョ。そこから360キロはマデイラ・マモレ鉄道で、グワジャラ・ミリンまで。「この鉄道沿線地帯は恐るべきマラリア並びに黄熱病の巣窟とも言われるところで、各人家が二重の金網で囲まれているのを見てはゾッとせざるをえなかった。この鉄道は第1次世界大戦当時、この地方に良質のゴムが生産するので、このゴムの景気で敷設されたものであるが、それがために犠牲となった者の数はそこに横たわる枕木の数がこれを代表しておると言われておる。それほど当地は恐るべき不健康地帯なのである。そしてそれ程犠牲を払ってせっかく敷設したこの鉄道も終戦と共にゴムの大暴落となり今はほとんど火の消えたような淋しさであった」(521頁)と書く。事実、トメアスー移住地も入植当初マラリアなどの病害に苦しみ、多くがサンパウロ州など南部に転住した。小林は1928年のこの時点で、同移住地の将来を冷徹に見通していた。 マデイラ・マモレ鉄道の終点から、船で一昼夜でボリビアのリベラルタに到着。ここにはゴム黄金時代に、一攫千金を夢見てペルーからアンデス山脈越えをしてやってきた日本移民が一時は1千人近くおり、小林が行ったときには200人程度まで減っていた。
「今思い出しても身の毛がヨダツ思いがする」アンデス横断
水路の終点トッド・サントからは、いよいよアンデス越えだ。ボリビア人のカラバナ(騾馬10頭に荷物を括り付けて行き来する行商隊)に交じって、5日間の山越えとなった。「アンデス山の東方は非常に雨量が多くて殆ど毎日の様にゴロゴロと雷が鳴って絶えず雨が降るのであるが、数日の間は一軒の家もないので、大木の蔭に身を寄せて雨の中に寝て雨の中を歩かねばならないので、身体の弱い者など到底耐え得べき旅行ではない。途中に動物の骨とも人間のそれとも見分けのつかない白骨が散らばっている場所を幾度か通過したが、なにぶん、1万数千尺もあるアンデス山帯の道なき道をよじ登るのであるから、今思い出しても身の毛がヨダツ思いがするのである」と大冒険そのものの経験が記されている。 コチャバンバに無事到着して、ラ・パスからペルーに2週間滞在してから、船でいったんリオに戻り、休憩してから船でパナマ運河を超えてロサンゼルス、サンフランシスコを経て、1929年2月に13年ぶりに日本帰国という旅だった。 つまり、その後、冒頭の渋沢栄一との会見という流れになる。「色々な問題」の一つが資金集めだった。 冒険の感想として「南米各国は各々独立国であるがイザとなれば北米は殆ど己が属国のごとくこれらの国々を左右することは、今回の世界大戦によって証明されたところである。戦争中、在留同胞の或る者は言語道断な迫害を受けたが、それは決してブラジルそのものから来たものでないことは、誰知らぬ者はなかった。ゆえに我らはこれを敵に回さずにむしろ協力者として彼らと提携するに若くはないと思う。すなわちブラジルは土地を提供し、北米は資本を出し、日本は人間を送ることとして、日米伯3国協同のもとにここに平和的文化事業を進めることができれば、これに越したことはないではあるまいか」(528頁)と独特の見方で締めくくる。
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