コロナ禍の震災語り部たち 冷たい慰霊碑「ぜひ触りにきて」 オンラインで当事者たちが紡ぎ出す言葉を追体験 #知り続ける
「慰霊碑に直接触って肌で感じてほしい」 丹野祐子さん
名取市閖上地区に住む丹野さんは、震災で当時13歳だった息子の公太さんを亡くした。 「今日2月23日、国民の祝日、天皇誕生日です。実は亡くなった私の息子、公太の誕生日でもあります。平成10年2月23日生まれ。今日で年男、寅年の24歳です。日本国中が国旗を揚げて、私の息子の誕生日を祝ってくれる。そんな日に『あの日』を話すことができて、今はとても幸せです」 丹野さんは時折小さく表情を和らげながら、語りを続ける。その淀みない語り口からは、これまでに何度も何度も繰り返し語ってきたことがうかがえた。震災後の11年間はどんな日々だったのだろうか。他人には分からないこれまでの彼女の歩みを想像する。丹野さんの後ろには防潮堤が見える。 「気付いた時には、街すべてが『がれき』という言葉に変わっていました。たった3分で、街は壊滅状態。この景色が、私の脳裏から今も離れることはありません。がれきという言葉。今も本当は嫌いです。これはがれきじゃないんです。私たちの財産、そのものです。11年前、がれきに埋もれた街は、きれいな街に生まれ変わっていきました。でも間違いなく、ちゃんとここに街があったこと。たくさんの人と笑顔の暮らしがあったこと。忘れて欲しくない」 言葉はとても便利だ。しかし、何かを誰かに説明する時、手あかの付いた借り物の言葉ばかり使っていると、本当に大切なことがこぼれ落ちてしまう。当事者たちが自分の中から紡ぎ出す言葉だからこそ、こうやって語りを聞くことには大きな意味があるのだと思う。
「あの日の朝、ご飯を食べた茶碗。箸。鉛筆。息子の生きた証。何かないかなって、必死に探しました。泥の中、何度も何度も泥だらけになって、街中を探したんです。でも何も見つけることはできませんでした。息子の教室、たまたま1年生は(津波を免れた)3階だったんです。こっそり教室に忍び込みました。息子の机。私には見せることができない悪い点数のプリントがぎゅうぎゅうに机の中に押し込まれていました。本当ならちゃんと家に持って帰ってこなくてはいけない教科書やいろんな教材。全部、ロッカーにぎゅうぎゅうでした。ちょっとうれしくて、大切に大切に、全てを持ち帰りました」 「旧閖上中学校は、14人の子どもが犠牲になりました。14人を忘れないでほしい。そんな思いから、校舎から机を引っ張り出してきました。献花台を作ったんです。2011年9月のことです。献花台を作ったことで、14人の名前を刻んだ慰霊碑を建てたいと思うようになりました。同じく子どもを亡くしたお父さんやお母さんと横のつながりを持って、『間違いなく14人がここに生きた』という証の慰霊碑を建てることができました。直接触って肌で感じてほしい。そんな思いから、触れる形で作りました。慰霊碑は新しくできた閖上小・中一貫校の端っこにあります。学校の一角ですが、誰でも自由に入ることができる場所です。今日の朝は氷点下でした。石はとっても冷たかった。だからこそ、誰か人の手で温めてあげてほしい。しもやけにならない程度に、ぜひ、触りにきていただければありがたいです」 丹野さんは語りの中で何度も「閖上に来てほしい」と訴えた。コロナ禍で、丹野さんが「あの日の記憶」を語り続ける場所である「津波復興祈念資料館・閖上の記憶」に来館する人は少なくなり、オンラインで語り部の活動を行うことも増えているという。それでも「冷たい風に当たりにきてほしい。感じてほしい」。 宮城からの帰りの新幹線の中でも、丹野さんの言葉を何度も反芻した。災害の伝承活動に詳しい東北大の佐藤翔輔准教授(災害伝承学)は「直接行くと移動時間もおのずと考える時間になる。定着の度合いは違う」という。丹野さんが来館を訴える理由が、訪問する前よりも少し分かったような気がした。