僕の青春時代、アメリカ車はまさに「ドリームカー」だった!
父や兄がたまに買う雑誌等にそんなモデルの写真が載っていると、僕は頼み込んでそのページを切り取らせてもらった。もちろん、僕の机の前に飾るためだ。 アメリカ車はまさに「ドリームカー」的存在だった。触れる機会はなかったが、ある時から見る機会は急に増えた。1953年、青山学院中等部に入り、日々、渋谷~青山界隈をうろつくことになったからだ。 とくに渋谷には、ワシントンハイツ(アメリカ軍の兵舎/家族用居住宿舎)があったので、アメリカ車に出会う機会は増えた。 とはいえ、アメリカ車は遠い存在のまま。そのステアリングを握るまでには6年もの歳月がかかった。つまり19歳になるまで待たねばならなかったということだ。 19歳、、青山学院高等部を卒業し、大学に進学した年だが、一生を左右する出会いがあった。家内と出会ったのだ。
前にも書いたが、出会いのきっかけは、家内が大学に乗ってきていたシトロエン 2CV。 クルマで大学に通うこと自体珍しい時代に、シトロエン 2CVというとんでもないクルマに乗ってくるなんて、、僕は声をかけた。 そして、運転席に座らせてもらった。、、すると、「運転してみる? 面白いわよ!」と。 いとも簡単に運転させてくれた。 シトロエン 2CVは「とんでもないクルマ!」だったが、「ほんとうに楽しかった!」。そして、明るくあっけらかんとしている彼女が好きになった。 そんなきっかけで友達になり、特別な人になり、、それから現在に至るまで、楽しくハッピーに過ごしている。 念願のアメリカ車に乗れたのも彼女のおかげだ。彼女の家のクルマが、1953年のビュイック スーパーだったのだ。 当時はまだ、輸入車の新車は買えない時代。で、中古車をブローカーから買ったとのことだが、黒の4ドアで、クロームメッキのフロントグリルがやたら目立った。
運転はさせてもらえなかったが、彼女の兄が運転する助手席に乗せてもらった。V8の唸りと力感、滑らかな加速とソフトな乗り心地は、今も微かにだが、身体が覚えている。 それから間も無くして、ビュイックは1956年のオールズモビル88に買い替えられた。明るい水色とオフホワイトの2トーンカラーを纏った88は、眩しいほどカッコよかった。 この時には、彼女との結婚も決まっていた。なので、自由に運転もさせてもらえた。こうして僕はついに、憧れのアメリカ車の運転席に「辿り着いた!」のだ。 で、次なる目標は、「好きなアメリカ車を自分自身のものにすること」になるわけだが、その機会は、ある日突然、意外なところからやってきた。 これも以前書いたことがあるが、当時の2枚目トップスター、東宝の宝田明さんの愛車を譲り受けることになったのだ。