さりげない英文に潜む妙を知る―斎藤 兆史『名場面の英語で味わう イギリス小説の傑作: 英文読解力をみがく10講』鴻巣 友季子による書評
◆さりげない英文に潜む妙を知る 日本語話者はどうしてなかなか英語を話せるようにならないのかという議論が喧(かまびす)しい。 その大きな理由の一つとして、インプット(読む・聴く)の圧倒的な不足があるのだけれど、不思議なのは、あたかも英語には読む、聴く、書く、話すという四つに分かれた技能があり、話す能力だけ独立して養えるかのような政策や指導法が目立つことだ。 会話力というのは、読み、聴き、書く生活の中で総合的に形成される“合わせ技”。読む・聴くのインプットで土壌を肥やして書く感覚を身につければ、自然と話せるようになる。日本語話者にはこれが確実だと思うのだけど、そんな面倒なことはすっ飛ばしてペラペラになる方法があるはずだという幻想が抜きがたい。 さて、『イギリス小説の傑作』は、英文学の名作を味わって読むことで英語の読解力を高め、読解力を高めることで作品を深く味わえるという、往還的な効果をもたらす指南書だ。 取りあげられるのは、シャーロット・ブロンテ『ジェイン・エア』、エミリー・ブロンテ『嵐が丘』、モーム『人間の絆』、など、十九世紀から二十世紀末までの長編小説が十編。 さらりと読んだときには意識しない小さな点から、作品の本質を言い当てるような指摘がなされていくのが痛快だ。 たとえば、オースティンの『高慢と偏見』。隣にいわゆる独身貴族が越してくると聞き、五人姉妹の母ベネット夫人は色めき立つ。夫は如才なく夫人に、おまえは挨拶に行かないほうがいいよ、娘たちが霞(かす)んでしまうかもしれない、といったことを言う。 夫人は賛辞に気を良くするが、問題はつぎの夫のセリフだ。著者は文中のwomanの前が不定冠詞のaになっていることに注目。夫はさらに妻を持ちあげているのか、それともさりげなく落としているのか? イギリス系の小説には、一般論の顔をした嫌味というのがよく出てくる。 助動詞の機微が読めることも、理解を深める。本作の名高い冒頭の一文で、must(語り手の推量や心情を表す)がおかしな使われ方をしているのはなぜか。このミステリーが解かれることで、本作の批評性が見事に浮き彫りになる。 冠詞といえば、コンラッド『闇の奥』の名場面、The horror! The horror!というクルツの今わの際の叫びに対する解説も目から鱗が落ちた。ここにあるはずの省略部分、まさに“闇の奥”を読み解くことになる。 ウルフの『ダロウェイ夫人』では、ダロウェイ夫人から端役にすっと視点が移る瞬間を倒置構文から割りだし、現在時制への変化を指して小説のナラティヴの特質を語る。 最終章で取りあげられるイシグロ『日の名残り』は、第二次大戦後の新時代に戸惑う執事の回想。この人物が文学史に残る名キャラクターたりえたのは、精妙な“信用できない語り手”ぶりゆえだが、その語りの質を醞醸(うんじょう)しているのは悔やみの念である。再会したケントン嬢との別れの場面で、what might have been.というたった四語によってそれを表現するイシグロの芸。そこに精確な光を当てる解説。 英語がわかるとは、こういうことだ。 [書き手] 鴻巣 友季子 翻訳家。訳書にエミリー・ブロンテ『嵐が丘』、マーガレット・ミッチェル『風と共に去りぬ1-5巻』(以上新潮文庫)、ヴァージニア・ウルフ『灯台へ』(河出書房新社 世界文学全集2-1)、J.M.クッツェー『恥辱』(ハヤカワepi文庫)、『イエスの幼子時代』『遅い男』、マーガレット・アトウッド『昏き目の暗殺者』『誓願』(以上早川書房)『獄中シェイクスピア劇団』(集英社)、T.H.クック『緋色の記憶』(文春文庫)、ほか多数。文芸評論家、エッセイストとしても活躍し、『カーヴの隅の本棚』(文藝春秋)『熟成する物語たち』(新潮社)『明治大正 翻訳ワンダーランド』(新潮新書)『本の森 翻訳の泉』(作品社)『本の寄り道』(河出書房新社)『全身翻訳家』(ちくま文庫)『翻訳教室 はじめの一歩』(ちくまプリマー新書)『孕むことば』(中公文庫)『翻訳問答』シリーズ(左右社)、『謎とき『風と共に去りぬ』: 矛盾と葛藤にみちた世界文学』(新潮社)など、多数の著書がある。 [書籍情報]『名場面の英語で味わう イギリス小説の傑作: 英文読解力をみがく10講』 著者:斎藤 兆史,髙橋 和子 / 出版社:NHK出版 / 発売日:2024年03月14日 / ISBN:4140351861 毎日新聞 2024年3月23日掲載
鴻巣 友季子
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